読書メモ『日本人のしつけは衰退したか』1~3章



広田照幸(1999)『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書


検討する命題群

イメージ1 家庭の教育力は低下している。
    1ーA 昔は家庭のしつけが厳しかった。
    1ーB 最近はしつけに無関心な親が増加している。
    1ーC 家庭は外部の教育機関、特に学校にしつけを依存するようになっている。
→本当に家庭の教育力が低下しているのか。家庭の教育力が低下しているという言説はどこからきたのか。

本書の背景

1997年 「酒鬼薔薇事件」→橋本首相「心の教育」の重要性を主張。
1998年 中央教育審議会答申『新しい時代を拓く心を育てるために―次世代を育てる心を失う危機―』 学校の道徳教育の見直し、地域のあり方、家族のしつけの望ましいあり方の提言を行う。
URL:https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/980601.htm

→「家庭のしつけが衰退している」というイメージが、一般社会、マスコミ、政府に共有されていた。

明治後半~昭和初期の教育

「村のしつけ」はどんなものだったか

1.共同体の規範に縛られない〈家庭教育〉という概念は存在しなかった。
2.子供の教育は生活上それほど優先順位が高くなかった。
3.親子関係は〈教育〉的なものではなかった。

 村での生活は貧しく子供は労働力とみなされ、今でいう一般的なしつけには重きを置かれていなかった一方、家業の技能伝達のための「労働のしつけ」に関しては厳しくしつけられた。親だけでなく多種類の社会化エージェントと社会化の機会とが多様に存在していて、無意図な社会化機能が果たされていたと言える。

「村のしつけ」は幸福なものだったか

1.「村のしつけ」には差別と抑圧が組み込まれていた。
 目上の人に礼儀正しいというのは、忍従と卑屈さと表裏一体であった。長男や次男以下の区別、男女の区別、本家・分家といった家柄や財産所有による家格の区別など差違づけの体系と支配-隷属関係が含まれていた。
 村でしつけを受けるということは「分際」をわきまえ、こうした差別的な社会関係を染み込まされることだった。

2.生活の中で学ぶという人間形成のやり方はしばしば望ましくない結果を生むことがあった。
 大家族の中で祖父母に色々なやりかたを教えてもらうこともあれば逆に溺愛し、甘やかされることもあった。家族内の複雑な人間関係によって人間不信や憎しみの感情ばかりを身につけることもあった。
 同様に村の人間から役に立つことを教えてもらうこともあれば、みだらなことやよからぬことを教わって道を踏みはずすこともあった。
 丁稚や徒弟制度は、低賃金で酷使されるという少年たちにとってあまりにも辛い「教育」であった。

3.共同体からはみだした子供たちはアウトサイダーとして生きざるを得なかった。
 「村のしつけ」が対象にするのは、あくまで共同体の正規メンバーに限られていた。例えば私生児で生まれ年端もいかないうちに奉公に出された子供の生活は悲惨なものであった。

4.「村のしつけ」はローカル・ルールだった。
 礼儀作法もしきたりも村の中でこそ通用するが、一度外に出るとまったく無力であることも少なくなかった。こうしたローカル・ルールは、しばしば人を意固地にし、臆病にした。集団内ではよそ者に対して冷たい視線を浴びせ、集団の外では委縮して同調するのに汲々としたり、逆に開き直って無遠慮にふるまったりする。
 それは、「社会公共のルール」、「他人の立場に立ってものを考える」といったモノではなく、閉鎖的な集団内でのみ通用する「しつけ」であった。

学校に対する反発→定着

近代に移植された学校と民衆の生活世界の「教育」というのは、全く異質な人間形成論理であり、この葛藤は戦後まで続いていた。

 学校が出来たばかりの明治初期には、学校を作るかどうか/学校へ行かせるかどうかが問題であった。子供を学校に行かせることは、貴重な労働力を手放すことであり、授業料(最初は有償)も支払わなければならなかったことから親たちにとってそれなりに重要な決断であった。
 一方で、子供が学校に行くことが慣行になると、親たちは学校へ子供を預けっぱなしにした。親たちはあまり子供が学校でどのような教育を受けているのかという内容にはあまり関心を払わなかった。親が期待していたのは、基本的な読み書き計算能力であり、しつけや集団の中での規律といったことは求めていなかった。また、学校で教育を受けたとしてもその後の人生に大きく影響は与えず、学校は大した重みをもっていなかった。

 都市の家族においても「家族」という単位は希薄であった。狭い長屋に数家族が同居していたり、親が病死、蒸発していたり、家族が集合離散を繰り返すのも珍しくなかった。両親がそろっている場合でも子供のことは家庭内で優先順位が高くなく、子供は放任されていた。経済的・時間的余裕のない親たちにとってはなおのことそうであった。
→農村でも都市でも「昔の親はよく子供をしつけていた」というイメージに当てはまらない親の方が普通であった。

教育する家族の登場

 大正期、1910年代に入ると今まで見られなかった家庭での育児・しつけと教育のノウハウを親向けに指南するガイドブックが登場した。
e.g.『家庭教師としての母』「『中等学校受験生を持つ母の悩みを解く』『教師と母の為の子供の生活指導』
→これらの本は母親に新たに〈教師〉の役割を担わせるものであった。

新中間層の出現

 中・高等教育の拡大と経済構造の変容を背景に専門職や官吏・俸給生活者といった新中間層が出現した。彼らは子供を組織的・意図的な教育の対象とみなし、家庭を教育的な関心に基づき合理的に編成しようとした。母親のための教育本は、彼らが主な対象であった。

新中間層の教育意識の特徴
1.明確な性別役割分業意識を前提に親(特に母親)こそ子供の意図的な教育の責任を負っているという認識。
→しつけや人間形成の担い手が親のみとなった。
2.家庭と学校教育の同型化。
→新中間層は学歴が子供の将来に重要であることを認識し、教育目標も学校教育が掲げる理想と重なることとなった。

矛盾する教育意識

「童心主義」-子供の無垢さや純真さを賛美し、子供の内発的エネルギーや発想を大事にする。
「厳格主義」-子供の無知さや野放図さを嫌い、「子供っぽさ」を脱却し、将来を見据えさせる。
「学歴主義」-知識習得に重きをおき、学歴が将来直結するという考え方。
これら三つの志向性が対立しながら、学校教育・家庭教育に存在していた。

パーフェクトマザー

 新中間層は、これらの対立を矛盾と捉えることなく、三者同時に達成しようとしていた。子供たちを礼儀正しく道徳的にふるまう子供にしようとしながら、同時に読書や遊びの領域で子供独自の世界を満喫させる。さらに、予習・復習を欠かさず望ましい進学先に子供たちを送り込ませようと努力するー。彼らの教育意識は「望ましい子供像」をあれもこれも取り込んだ「完璧な子供=パーフェクトチャイルド」を作ろうとするものだった。
 そしてもちろん「パーフェクトチャイルド」を作ろうとする親の側にも最新の注意と知識、判断力が求められる。新たに登場した教育ノウハウ本は、我が子を「パーフェクトチャイルド」にするためのマニュアルであり、同時に「完璧な母親=パーフェクトマザー」になるためのものだった。
→〈子供期〉の発見と親の「教育する意志」の発見

「教育する家族」の中の子供

1936年 教育評論家 宮下正美

 母親に相当な教育があって時間と経済力のある家庭では子供がかつてないほど良く教育されるようになった。こうした家庭教育のもとで育った子供は「デリケートな精神の働きを持って」おり、「理解力や把握力が強く、同化力がある」。また、「より社交的であり、より明朗で」あり、「その行動は驚くほど個人主義的である」。同時に「執着力がないから一つのものごとを長くやり続ける熱意に乏しいし、又自分の好きなものごとに傾いて、ひどく偏ってしまう癖がある」。また、「家庭と学校、戸外と室内、独り居の時と大勢一緒の時と、その生活態度に著しき変差を示す」。

変容する家族としつけ

 1945年までの戦争で都市家族の生活の基盤は大きく揺さぶられた。しかし、戦後も教育意識の階層間の差違は依然と存続していた。この時期の家庭のありかたや家庭教育についての言説は、教育過剰と受験への過熱を戒める新中間層に向けたものと子供の教育にもっと親が関心を向けるべきという農村・都市下層民の家庭に向けた対照的なものがあった。

 1950年代半ばには、子供の教育のために心理学の本を熱心に読みこみ実行しようとしたり、知能検査をうのみにし心中しようとするあるいは知能検査の練習をしようとしたりする「心理学ママ」なる言葉が登場する。同じ時期には過剰な塾通いやおけいこも問題として取り上げられるようになった。

 一方、農村や漁村地域の教育は、教育学者や教師からみると依然として「封建的」、「非民主的」で「教育に無関心」な親ばかりだった。
→無着成恭(1951)『山びこ学校』-山形の山村での教育実践記録。
 1952年に神奈川の農村で行われた調査を見ても父母の関心は労働に集中していた。また、農村の子供は自分に対して親が関心を寄せていないことを都会の子供よりも強く感じていた。

広がる進学志向

 戦後、意識が大きく変わったのは進学志向で、新中間層のみならず農村を含めた広い階層に進学を好ましいと考える価値観が広まった。ただし、実際に進学できたかは、話が別で労働力の必要や経済的な事情が進学をはばんでいた。

高度経済成長は何を変えたか

 敗戦後、教育学者らが「村の近代化」、「家庭教育の民主化」を盛んに訴えたが、現金収入に乏しく、日々の労働と生産が生活に密接に関わる農村部では、一種の高説と受け止められ生活を変容させることはほとんどなかった。
 ところが1950年後半から高度経済がはじまると、経済構造の急激な変動が、旧来の村や家族のあり方を根本から破壊していくことになった。
→福武直編(1972)『農村社会と農民意識』-秋田と岡山の同じ村を対象にした調査では1953年と68年の15年で家族関係や生活意識が大きく変容したことを示す。
→後藤竜二(1979)『故郷』-北海道の開拓農家に育った後藤の自伝的小説。当時の農村の変化が描かれている。
 1970年代前半まで日本社会は変貌し、学校の役割もそれに伴い変容した。

変わる農村

1.若者の農村から都市への大量流出。
 敗戦から数十年は戦災後の都市や工場で勤め口が限られていたが、高度経済成長が始まると求人は激増し、1954年から集団就職列車が走り始めるようになった。
2.農村の兼業化が進み、農村に残った者も働きに出るようになった。
 1950年には、2割程度だった第二種兼業農家(兼業を主、農業を従とする)は、75年には6割を超えるまでになった。その原因として、農工間での所得格差の増大、農業の機械化の進展がある。
 50年代にはまだ都会に出て下積み生活を送る次三男より、家業を継ぐ長男が羨ましがられていたが、60年代になって都市勤労者の所得水準が上昇すると長男の方が「割の悪さ」を感じるようになった。こうして兼業化、離農・離村が進行した。

 大規模な社会の変化を感じつつある農村の人々にとって、重要なものは「村」でも「家」でもなく、単位としての「家族」であった。彼らが取りうるサバイバル戦術は多様なものがあったが、その一つとして子供の教育がかつてないほどの重要性を持つようになっていた。
 家族にとっての教育の意味を決定的に変えたのは、結局地域共同体の解体と家業継承の終焉であった。教育学者や教師が行おうとしていた「よりよい生活」の達成は、村内改革ではなく、離農ー村の解体と学歴をてこにした個人を単位とする移動によってなされるようになった。

学校の黄金期

 1955年に51.5%だった高校進学率は65年には70.7%になり、74年には90%を超えた。大学・短大への進学もこの期間に10.1%→34.7%に上昇した。変化したのは進学率だけではなく、卒業後の進路も組織に雇用して働くという者がほとんどとなり、「腕よりも学歴」という職種が増えていった。こうして進学するかどうかや学歴が子供たちの人生にとって決定的に重要性を持つようになった。高度経済成長は、農村を含めたあらゆる社会層が学歴主義的競争に巻き込まれるようになった社会を作り出した。
 こうした社会変化により、農村部の学校は50年代後半から70年代初頭にかつてないほど、頼りにされる存在となった。今の生活から抜け出して新たな生活に踏み出すための手段として勉強は、人生の可能性と直接結びついていた。学校の役割は、就職相談を受けたり、求人を紹介したり、集団で上京する子供たちに付き添っていくなど単に学力をつけさせるだけではなくなっていた。また、学校での手段生活の訓練や言葉遣い礼儀作法なども重要になってきた。こうした親たちが教えられないような、新たな社会でやっていくための機会と知識や技術を子供たちに提供することで学校は親からも子供からも信頼されるようになった。〈学校の黄金期〉であった。

「教育する家族」の広がり

 1960年に盛んに言われた「近代的な家族」「民主的なしつけ」は新中間層の家族を手本にした「望ましい家族」であった。60年代後半には「教育ママ」という語が流行となり、様々な階層において勉強重視・学歴重視のしつけ態度を示すようになっていた。農村にも学習塾が作られ、しつけのノウハウ本は全国のどの階層でも読まれるようになった。
 「家庭の教育力の低下」言説が目に付くようになったのは、高度成長期の後半にあたる60年代半ば頃だった。しかしながら現実に起こっていたのは、あらゆる階層が学歴主義的競争に巻き込まれながら、「家庭の教育力」を自覚させられる過程であったのである。



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