ボカコレがボカロ文化に与える影響(前半)
はじめに
ボカコレと呼ばれる投稿祭(決められた期間に参加者が一斉に曲を投稿するイベント)が一年に二回ある。
2020年12月に始まり、2023年8月の「ボカコレ2023夏」で累計7回を数えた。
ボカロ文化の祭典という位置づけであり、「お祭り」感を全面的に打ち出し、楽しむことを一義的に設計されている。
ところが、実際、渦中に身を置くと、お祭り感はあまりない。
投稿者はランキングに一喜一憂し、X上では様々な議論が展開され、特定の個人に対する誹謗中傷も引き起こされる。ボカロP同士のケンカが始まり、分断が生じる。
ボカコレ終了後、精神に不調をきたして活動休止、最悪の場合筆を折るボカロPもいる。
アナーキィでカオスな側面が色濃い。
※もちろん、心底楽しんでいる人もいる。
この分断を生む最大の要因は、言うまでもなく「ランキング」だ。
一般的に考えると、お祭りとランキングの概念は同居できる。
夏祭りでのカラオケ大会は珍しくないし、フェスティバルにおけるバンドコンテストというものもある。
しかし、これらの賞レースではさほどの混乱は生じないし、むしろ盛り上がる。
では、なぜボカコレにおいてはランキングがこうも悪さを働くのか?
本稿では、その理由を明らかにしつつ、この状況が続くことによる弊害について述べたい。
1.何をランクしているのか?
通常、ランキングというものは、明示的なルールに従って集計されたポイントをもとに序列をつける。例えば「CDの売り上げ枚数ランキング」であれば明々白々であり、結果については不満を言う人間は少ないだろう。
※この場合でも、コアなファンが一人で大量に購入したんじゃないか? という誹りを受ける可能性はある。
逆に、ルールがわからないランキングについては、ランクの見える化を放棄しているため、外から見た場合不公平だと感じられ得る。検索エンジンが良い例だろう。これはSEO対策と呼ばれる、不当に検索順位を上げる方法が用いられるのを防ぐため、わざとブラックボックス化されている。
ボカコレのランキングはどうかというと、後者の部類に入る。統計データとして用いられそうなものとしては、再生数、イイね数、コメント数、マイリスト数等があるが、重みづけは不明であり、不透明なポイント制度になっている。検索エンジン同様、不当に順位をあげることを防ぐためだと考えらえる。逆を返せば、SEO対策同様不当に順位をあげることができるということだ。
最も単純な解として考えられるのは、「重みづけがわからなければブルートフォースアタック(総当たり攻撃)を仕掛ければよい」である。
つまり、すべての統計指標に対してプラスになるように動けばよいのだ。
それが、2023夏のボカコレでも議論の対象となった「自薦」という行動である。「自分の曲を聴いてください」という主張。イイネ、マイリスト登録、コメントもお願いします。と一文添えればさらに効果が期待できる。
ここで、重要な論点を一つ。CDの購入といった経済的損失を伴う選択を行う場合、購入者が本当にその音楽を好きでないと行動しないため、購入者は真性のファンである可能性が高い。
ボカコレ(つまりはニコニコ動画)のように、閲覧、イイね、コメント、マイリスト登録に費用が発生しない場合、ポイントの高さ=その音楽の支持の高さ、とは一概に言いにくい。フォロワだから、自分の趣味のサウンドではないけど義理で聴くし、イイねも押すというケースは少なからずあるだろう。
これらの点から鑑みると、参加者、利用者の間には、そもそも「ボカコレのランキングに対する疑義」が生じやすい土壌がある。
そのため、以下のように認識していると思われる。
ランキング上位=良い曲
ではなく、
ランキング上位=再生数、イイね、コメント、マイリスト登録が多い曲
※それらの指標が純粋なリスナから得られた評価かどうかもわからない。
ランキングというものが、天から与えられた純粋無垢なものではなく、人によって操作されたものという認識だ。
つまり、「ランクインした曲は、営業努力の賜物でしかない」とみなすことが論理的にできてしまうし、この命題を否定できる根拠もない。ここがボカコレ問題の厄介なところである。
2.曲の良し悪し
2-1.良し悪しと好き嫌い
問題の根はさらに深い。
私はそもそも曲に良し悪しというものは存在しないという立場をとっている。その道のプロフェッショナルたちが途方もない時間とお金をかけて制作した曲よりも、劣悪な録音状況で残されたボブマーリィのRedemption songのギター一本の弾き語りのほうが心を動かされる。なぜか? わからない。単純に好きなのだ。ボブマーリィだと高名すぎるので、名もない路上ミュージシャンでもいい。少なからず心に響く場合がある。
任意の曲に対して存在する評価基準は「良し悪し」ではなく「好き嫌い」だけだ。
今回のボカコレでは、終了後にMIXの良し悪し関する話も大きな議論となった。
再度言及するが、MIXにももちろん良し悪しはない。あるのは「好き嫌い」だけだ。
音が鋭すぎる、大きすぎる、耳が痛い、あの音色が埋もれている、割れている。
全て、好き嫌いだ。
そういう音が好きな人もいるし、嫌いな人もいる。
ここで、反論として出てきがちなのが、「一定のレベル」という見えない基準の存在だ。
確かにMIXは良し悪しだと思うけど、それは一定基準以上の話。どうしようもないものもある。という意見。
一見もっともだが、違う。
似通った感覚の人が周りに多いと、あたかも人類全員がそういう見方をしているような錯誤を生じる。
クラシックのCDを聴きながら、「ダイナミクスが大きすぎるよ! なってねえなあ! コンプでもっとつぶせよ!」とのたまうのだろうか?
アラブの音楽を聴きながら「音程が12音階になってねえよ! しかたねぇなあほんと!」と文句を言うのだろうか?
西洋音楽という「地球上の一部の地域発祥の」音楽理論をベースにし、「日本において」「最近」よく流れている音楽に「共通する性質」をもって「古今東西完全無欠たる基準」だと思ってはいないか?
アメリカの大統領から、未開の地に住む狩猟採取民まで、このMIXが良いと全員が思うものはない。もちろん曲も。個々人のもつ文化、歴史が違うのだから当たり前だ。
ランキング一位は全員にとってのランキング一位のはずがない。
「好き嫌い」と「良し悪し」を混同してはいけない。
しかも、人は他人の意見に簡単に流されてしまう性質を持っている。
2-2.作られる流行
詳細は省くが、音楽ダウンロードに関する有名な実験がある。
大量の曲がある中から、被験者は自由に視聴し、好きな曲をダウンロードすることを求められる。
その際、他の被験者がどれだけダウンロードしているかが見える。
どうなったか?
いわゆる質が高い楽曲が、いつでもどこでも誰にでもダウンロードされたか?
否。最初の状態でダウンロードされた回数が多く表示されたものがたくさんダウンロードされた。
実験のたび人気曲は変わる。
最初のわずかなゆらぎが、最終結果に大きな影響を与えるということだ。
良し悪しまでも確固たるものでなく、社会的な影響が大きいのだ。
ボカコレでも初動が大事と言われる。
このように根拠になる実験結果がちゃんと存在するのだ。
それらを直観的にわかっているからこそ、
結果が悪くとも自分の楽曲が悪いわけではないという自信も持てる。
2-3.まとめ
問題をまとめる。
ランキングに対する不信感、、曲の「好き嫌い」と「良し悪し」を混同した錯誤、ランキングと質が無関係であること、これらの背景により生まれる究極でありながらありがちな形が以下の意見だ。
「あんな良くない曲がなぜランキングインしてるんだ。初動のゆらぎが味方すればオレの曲のほうが上にいったにきまってるのに。きっと自薦でランキングを不当に操作したに違いない」
※非常によく似た意見をご紹介。
「なんであんな候補が当選したんだ。
きっと選挙操作したに違いない」
アメリカ社会の分断について懸念を持っている人は多いだろう。
同じことが起きているとは思わないだろうか。
これを、単純な「個人の妬み僻み」と捉えてはいけないと私は考えている。そう思えてしまう土壌があることが問題だ。
しかも、善意か悪意かまでは判断できないが、意図的に作られたものだと、私は確信している。
次章では、その根本にある原因について考察する。
<続く>