
教え、教えられる上で大事なこと
そんなに大っぴらに世の中に発信はしていなかったのだけど、昨年の3月から、京都精華大学というところ(美大?)で非常勤講師をやっていた。
社会実践実習というもので、平たくいうと、座学とかだけではなくて、実際のものづくりの現場でやっていることを体験してもらうような実習をやった。私の仕事はデジタル技術を使ったものづくりなので、それに関わるプロセスと、そのプロセスの中で何を気にしてどう振る舞うと良いか、みたいなことを教えさせて頂いた。
たまに京都に行って対面でやったり、discordで課題出したりオンラインでやったり、いろいろな形でいろいろなことをやった。
で、この一年の実習が先頃概ね終わった。終わった上での感想としては2つあって、まずは「あー。くそー。至らんかったなー」ということがある。
長期的に、大学みたいなところで何かを教えることが初めての経験だったので、手探りではあったが、何しろ私自身が大学に入ったことはあるもののほとんど授業に出ずに中退した人間なものだから、大学生の興味とか、学んでいることとの距離とかが全然わかんなくて、うまいこと「チャネリング」できなかった。
自分がやっていることが、学生たちにどういう影響を与えているのか、何か変容をもたらし得ているのか、ずっと迷いながらやることになってしまったのは、私に、彼らの生活や未来に向き合う覚悟とか能力がなかった、至らなかったということになる。自分のそういうところを見直して調整して自信を持てたらまたチャレンジしたいなあと思う。
2つめの感想は、「教えるということはとてもインタラクティブな行為である」ということがわかって、とても良かったということだ。
まずは当たり前の話だが、教える方も人間なので、教え教えられるということは人間同士コミュニケーションに他ならない。
人にものを教える中で、「伝わった!」と感じることができたらとても効力感が得られるし、「じゃあもっと伝えよう」となる。
逆に伝わったかどうかわからない場合は、相手を観察するということになるが、それでも伝わったかどうかがわからない場合は、ある程度、内容の歩留まりを設定して、「ここまでの情報を与えて、伝わったことにしよう」という判断をすることになる。
言葉を変えると、「ここまではさすがにわかるだろう」というレベルのものを一方的に伝えて手を打つ感じになる。時間に限りがあるし、そうなる。
そこで気づかされたのが、「グループで教えてもらうことと」と「マンツーマンで教えてもらうこと」が全然違うということだ。
今回は、生徒がそれなりの人数いたため上記のような歩留まり手打ち方式にしてしまう局面が結構あったが、教える相手が1人だけだったら、伝わったことが確認できるまで時間とかお金とかのリソースが尽きるまでいくらでもトライアンドエラーできる。ライザップで言うところの「結果にコミットできる」。これは言わずもがな非常に大きな違いだ。
話を戻すと、教え教えられることはコミュニケーションなので、伝わっているかどうかの確認として、教えられる側のリアクションというのは教える側にとって非常に重要な情報となる。
頷いて納得感を出す、でも良いし、「わかりました!」と言うだけでもなんでも良いのだが、「伝わりましたよ」というサインを出すことは、次の何かを教え始めるためのキューになる。
もちろん、リアクションだけではなく、例えば、何らかの知識や技能を教えている場合、教える側の質問に答えたり、あるいは習得した技能を実演して、成長をダイレクトに表現することもできる。こういったこともとても重要な情報源になる。
教えている側は、必死に相手の情報を得ようとしているのだ。
そして、その情報量が多ければ多いほど、教える側はより効果的に、相手にヒットする教え方を開発できる。
だから、教えられる側はできる限り多くの情報を教える側に伝えた方がお得だ。できる限り、自分の状況や成長、あるいは成長していない部分を、あの手この手で伝えた方が良い。そうすればするほど、教える側は教えるべきことがわかり、結果的にこの「教育」というセッションが成功する可能性が高まる。
そう考えると、なるべく「教育」というものは、対面で行った方が良いんだろうなーと思う。コロナ時の「zoom飲み」は、あれはあれで楽しかったけど、どうしても、その中で得られる情報が視覚と聴覚だけで圧縮されるので不完全燃焼感があった。音楽のライブを聴くにしても、オンラインよりも生の方がそれは良い。
同じように、教える側としても、教える過程でより多くの情報が得られた方がより良い形で教えることができるので、対面で、五感入り混じった状態で生徒が発する情報を摂取した方が良い。
それが実感できたので、「学校」というものが空間と紐づいている意味もこの歳になってわかった。学校が空間という制約に紐づいているから受験戦争みたいなものが起こって子供たちが不幸になるんだと、私は思い続けてきた。幼い頃にお受験絡みで教育虐待を受けたのもあり、このへんのことはかなり自分に関係することとしても考えてきた。
しかし、対面でものを教え、教わることはとても贅沢なことであり、貴重な機会である、ということが身に沁みてわかったところもあり、学校が空間と紐づいていることの意味も理解することができた。受験など無くなった方が良いという考えは変わらないけど。
仮にそれがオンラインであったとしても、その制約の中で教える側はなるべく多くの情報が欲しい。自分が担当した実習でも、オンラインで行う際は、なるべくカメラをオンにして参加して欲しいということを学生に伝えてきた。カメラの向こうの学生の反応や状況は、非常に貴重な情報源だからだ。
大学のオンライン授業や、社会人の研修なんかでさえも、カメラをオフにして参加している人がたくさんいるが、学ぶ気があるのなら絶対にカメラをオンにした方が良いと思う。なぜなら、情報が少ないと教える側がめっちゃ迷うので、結局、何かを教わりたいという目的において効率を下げていることになるからだ。
その上で、更に重要なのが、たぶん、教えていること、あるいは教わっていることに対する「愛」だ。
教える側と教わる側は、たぶん「愛」で繋がることでより良い「教育」というセッションを完成させることができる。
「愛」と言っても、仲良くなる、とか「師弟愛」みたいな話ではなくて、例えば楽器を習っているのであれば、その楽器に対する愛のことだ。「興味」とか「リスペクト」と言ってもいい。
例えば私はデジタル開発の技術者だ。その領域で教えることができることはいろいろある。デジタルテクノロジーに興味があるし、愛を持っているといえる。
技術者に何かをお願いするときに、とても気をつけなければいけないことがある。
簡単なお願いであれ無茶なお願いであれ、「これやってください」と、それが大変な作業なのかそうでもないのか理解せずに一方的に「命令」してしまうと、技術者はヘソを曲げることがある。自分のやっていることに興味も理解もない人に上から何か言われたときに、お仕事として最低限のことをやるようなモードになったりする。
逆に、下記のような形で技術者に相談してみると、全然変わってくる。
「いまこういうものをつくりたくて、自分でもいろいろ調べたり試したりしたんだけど、どうしてもこのへんがわからなくて、あなたに一肌脱いで欲しいんです」
このように、対象に対する興味やリスペクトがしっかり表現された形で相談されると、技術者はいきなり超がつくほど親切になることが多い。突然サービス精神を発揮してあれもこれも考えて対応してくれたりする。職人気質をくすぐられる、ということでもあるのかもしれない。
これは、テクノロジーという対象に対する「愛」をお願いする側とされる側が共有して、それが約束になっているからこそ起こることなんだと思う。
この「愛」というか、教えたり教えられたりする上での「約束」は、スポーツであれ、語学であれ、学問であれ、楽器であれ、「教育」というセッションを一緒につくる上で最も尊重されるべきもののような気がする。
それがある「教育」はとても楽しい。だから、人は基本的には何かを教えるのが好きなのだ、ということは言えるように思う。
私の場合、大学の講師をやることを通して、そのへんが言語化できて、感覚的にも理解することができたのはとても価値のある体験だった。というのは、私はいろんな先生にいろんなことを教わっている生徒でもあるからだ。教える上で嬉しくなったりガッカリしたりした経験を経たからこそ、自分がより良い生徒になるヒントをもらえた気がする。
余談として、1月末で私が立ち上げて運営している会社を退職した社員がいるのだが、彼女は非常に愉快な人で、コンテンツやテクノロジー、焼酎やらラスベガスのカジノに至るまで、触れたものに対して全身で感動してハマって盛り上がる。何かを知って身につける際に放出する情報量がとても多いのだ。
新卒に毛が生えた状態で会社に来てくれて数年一緒にやってきたが、上記のような人なので、何かを教えるのがとても楽しかった。なんていうか、「教えられビリティ」がめちゃくちゃ高い。それは、他の人たちにも影響を与える尊い能力な気がする。
新しい挑戦のために転職したわけだけれども、あの「教えられビリティ」を持って、これからもいろんなことを教えられていくんだろうなーと思う。と、柄にもなく新天地での成功を念じながら文章にしてみました。