見出し画像

人生どん底 〜This is my way〜

人間は誰も皆どこかで必ず思考停止をする。否、する必要がある。例えば人生観でその思考停止をよく表す決め台詞が沢山ある。「山があれば谷がある」「悪いできごとと良いできごととは半々である」というようなものだ。実は皆これらが正しくないことを知っており、その上でそこで停止せざるを得ないのである。もしこれを読んでいるアナタが先の決め台詞の例を心底正しいと感じているならこの記事は読むに値せぬ駄文なので以降読む必要はない。

まずイヤなことを言ってみよう。仮に悪いことが起こったらそのぶん良いことがあるとする。では愛するなにかを失ったらその分素晴らしいものと出会えるか?良いことが人生の前半にすべて起こりきっていて残りの人生がまるで悪夢だと知らされたら?理知的にはどちらも不明だが、それ故に我々はこれらを悶々と考え続けても意味がないと判定し山あり谷ありのような短文で済ませる。そのアルゴリズムは生きていく上で身の回りにあまりにも満ち溢れており、自身で認知できていない場合すらある。

体系的な学問でも理想気体や剛体などの実在しない物体を想定して思考の範囲を狭め、限定的なケースで成立する法則をどんどん増やすことで世界を読み解いてゆく。だが1人の人間がそれを行うわけではないし、専門家の専門分野でさえそうした思考停止を要する場面があるわけだ。

勘違いして欲しくないのは、それが善悪に関わらないことだ。思考停止が悪いことだと言っているわけではない。皆必ず何かしらで思考停止をする。そうしなければ生きていくことすら困難だ。外食で店選びやメニューに悩む、だからお気に入りの店やお決まりのメニューを決めて思考停止する。読書をするとき好きな作家やジャンルを絞って選択肢を狭める。ほぼ無限と言えるほどの選択肢を条件で絞り、取捨選択をする。

つらつらと思考停止の存在とその必要性を説明したが、もちろん思考停止には抜き差しならぬ強烈なデメリットもある。それはそもそも思考停止が楽をするためのツールであることに起因する。ひとつは思考停止をすると例外が起きた場合に汎用性が下がることが挙げられる。外出したとき必ずマクドナルドの特定のセットで食事を摂るという思考停止を日常的に行っていた場合、仮にマクドナルドが外出先に無かったらその思考停止は解かれ、「さてどうするか?」と思考の再開を余儀なくされ楽をできなくなる。その程度かと思うかどうかはもちろん個人差はあるはずだが、それは日頃その個々人がその条件下でどの程度の思考停止を行っているかに準拠する。もしマクドナルドのハンバーガーしか食べられない偏食家であればかなりのストレスを伴うことになるだろう。思考停止の汎用性の低さとはそういうことである。食べ物が何でもいいとするとそのようなストレスは当然皆無だ。

ところで、生きていくというのはどうも普遍的ではなさそうだ。いつもいつも思いもしない悲しいことが起こる。そういうときに突然思考停止は解かれる。汎用性の低い思考停止ほど解かれた際の解決への手順は複雑である。前述のように無限の選択肢を無視していたからだ。思考をどこで止めるかは人それぞれのキャパシティで異なるが、ざっくりと言って当たり前のことができる人間ほど思考停止が上手いと言える。ひとつのことに躓きにくく、躓いたとしても次の停止を既に用意していたりもする。所謂リスクマネジメントだ。そう、実は思考停止は理知的且つテクニカルに細かい設定を用意すべきなのだ。マイナス要素が強すぎるものを立ち戻って学ぶべきか切り離して終わるべきか、そんな誰にも分からない答えをそれぞれ用意せざるを得ない。苦しみも喜びも全部掘り返して全部考えるなんて、そんなことは不可能なのだ。

そして私はそれを知らなかった。今まさにこのように外在化させて呆気にとられているところだ。皆知っていたのか?私が知らなかっただけなのか?

ここに考え至る自分をやや誇らしく感じ始めたが結局もとから思考停止が上手くできないだけじゃん、かっこわる。ガハハ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?