私の悩みについて
私に関わってくれている人が知ってくれるといいなと思い、書かせていただきます。決して、同情してほしいなどではなく…現状を知っていただきたいという気持ちが勝った結果、行っている行動です。うざい、めんどくさい、悲劇のヒロインぶるな、などなど、投げかけないでもらえると幸いです。
私の過去
私は、現在住んでいるところは、仲のよろしい方々しか話しておりませんのでお話できません。しかし、当時は愛知県名古屋市に住んでしました。まぁ、2歳の年までですね。
当時私は、いわゆる『虐待』というものをされていました。今でも朧気に記憶はあるのですが、真っ暗で空腹で寒い…といった感じだったと思います。実際には殴られたりしていたので、痛い…もあったのかもしれません。私は、産みの母親に虐待されていました。母は世間一般で言う『鬱病』と診断されていました。しかし、母はその事実を父に隠したまま結婚したそうです。後々わかってしまうのに、何故母は隠したのか…それを考えると、人間の心とは難しいと感じます。私には、計6名まで把握している兄妹が居ます。私が一番一緒に過ごしたのは、一番上の兄です。普段私はその兄のことをチンパンジーとよんでいます()
その当の兄は生まれてから直ぐに捨てられたも同然の扱いを受けた…と言うわけではなく、今現在私が住んでいるところに、父と一緒に引っ越していきました。当時私は生まれていませんでした。
私が生まれたあと、私は現在住んでいる県と名古屋を行き来するような生活を送ることが決まっていました。しかし、母が拒絶したため、それはなくなりました。そして、不安定な母と私は二人きりの生活を送ることとなりました。母は、最初のうちは頑張って子育てをしていました。でも、段々とすべてが辛くなりだし、私のことを放置するようになりました。泣きわめいてうるさいからと、自分が落ち着けないからと、暗い押入れに入れました。それを数回するうちに、私はあまり反応をしなくなりました。そして、無愛想に育ってきた頃、仕事の関係上なかなか来れなかった父が私と母の様子を見に来ました。そこで、無自覚に虐待が行われていたことに、初めて気づきました。私はこのとき、トラウマというものが植え付けられていました。
私のことがあったため、父は最善の判断として母と離婚をしました。母は離婚する際に何かと拒否をしていたそうですが、そこのところはあまり詳しくは教えてもらえていません。
そして私は、現在住んでいる県にきました。
2歳〜小5までは、祖父母、父、兄、私の5人で生活を送っていました。
いじめについて
私は小学校3年生から、中学校3年生にかけていじめをされていました。小学校低学年の頃は上靴に画鋲を入れられた、持ち物を壊された程度でした。しかし、高学年になるにつれて階段から突き落とすや、大切なものを人の前で傷つける、最後には首を絞められたり、刺されたりしました。
中学校にあがってからは、より悪質に変わり、精神がどんどんすり減らされていきました。
その時、既に私はADHDと診断されていました。
新しい義母
私には現在、父の再婚した義母がいます。私はその義母からも、『虐待』をされていました。
しかし、私ははじめから義母と仲が悪かったわけではありません。私が小学校の高学年頃いじめられていることや私の異変に気づき、病院へ連れて行ってくれたのも義母でした。義母となる前は、よく一緒に遊びに行ったり、料理をしたり、私のだいの苦手なお片付けを手伝ってもらったりしてとても仲良くしていました。私は義母が大好きでした。しかし、それは結婚するまでしか続きませんでした…
私と一番上の兄は、義母が私達の『母』になるとき、あることを言われました。
「私は貴方たちの母になる。今までと生活が変わったりすると思う。血が繋がってないからって、いつか反抗されるのもわかってる。でも、それでも私がお母さんになることを許してくれますか?」
私と兄は、義母が大好きでした。私は祖母に『母親』の像を重ねていたから大丈夫でしたが、兄は違いました。なので、『母親からの愛情』に飢えていた兄は、とてもうまく義母と関係を持てていました。しかし、私はそうも行きません。祖母は基本とても優しく、私が失敗したら怒るけれど、その後で優しく抱きしめてくれていました。しかし義母は、怒るだけ怒って放置して、成功してもそれが普通といって褒めることはなく、ずっと冷たいと感じていました。そんな生活の変化に、私の心は追いつかず、どんどん義母との仲は悪化しました。
義母はとても厳しく「洗濯物をかごに入れて持って上がりなさい。持って上がらなかったら洗濯物は投げ捨てます。」といった感じでした。洗い物も自分でして、洗濯物は私達が干してたたみいちいち細かいなぁ…と、思わずにはいられませんてした。そんな生活に私は疲れてしまい、義母に反抗的になっていきました。そして私は自傷行為をはじめました。
自傷行為といっても、リスカや自分を殴るという単純な行動でした。他には、自分の部屋(二階)から飛び降りて少しだけ死の体験を味わったりしていました。何度も死にたいと思っていて『気持ちの吐き出しノート』に書く内容は、『死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい』で埋まっていきました。それと、義母の文句くらいです。
私はある日、義母と喧嘩をした日…
「お母さんは、この家にいたいの?」
と聞きました。これは別に、この家に居座るなと言う意味ではなく、単純にこんな私みたいな娘がいる家にいて辛くないの?という意味でした。しかし義母は違う捉え方をして、「もう無理…」といってから祖母を呼びました。私はその日、初めて義母に殺意を向けました。初めて、人を殺したいと思って刃物をもった日でもありました。
その日から私は、義母から関わらないでと言われました。私は義母に嫌悪感があり、素直に頷きました。私は小学校の頃、バレーボールのジュニアチームに入っていたのですが、義母はご飯を食べ終わらないと行かせてくれませんでした。私はどんどん、ご飯が憂鬱になっていきました。もともとあまり食べなかったこともあり、ストレスもあり、私は食べられる量がどんどん減っていきました。私は冷えた米が苦手です。食べたくないのに口に思い切り詰め込まれていたのが、冷たい米でした。私は、義母からと離れて3年経ちますが、未だにストレスが溜まっているときは米を口に入れると反射的に吐き出しそうになるのです。
貴方は私の子供じゃない
これは、私が義母から言われた中で一番しんどかったセリフです。父と義母の間には、娘ができました。きっと、義母も産後鬱のような状態だったのだろうと思います。義母は、私にだけは冷たくあたっていました。私がお願いすればため息をついて嫌々ご飯を用意する…といった感じです。現在私はある程度家事ができます。それは、義母が私の分の家事を中々してくれなかったからです。
話は戻りますが、この見出しのセリフは私が初めて義母に蹴られた時に言われたセリフです。私は当時、ストレスでよく熱を出していました。コロナ禍というのもあって、私はずっと義母の提案で自室に隔離されていました。1階に降りれば「妹に菌が移るから早く上にいけ」と言われる毎日を、約3ヶ月過ごしました。妹は生まれつき身体が弱く、今でもよく高熱を出します。私は義母と離れてからの3年間、一度も妹と話していません。でも、とても心配ではあります。
その三ヶ月間は、本当に過酷でした。ご飯は無理やり食べさせられて、風呂に入るタイミングは僅かに聞こえる生活音から、風呂を使った音を聞き分け、それが何回分聞こえたかを確認してから入浴でした。早く入らないと、義母が笑いながら「まだ入ってなかったの?w」
と言ってくるので、私はそういった日はお風呂に入れず、洗濯物さえ洗ってもらえませんでした。
私はだんだん無理に笑うことが増えていきました。心から笑うことができなくなりました。そんな自分を嫌いで仕方なくなりました。
助けてって、言えなくなりました。
現在の生活
私は現在、祖父母と暮らしています。当時の私は、義母と妹が別居し始めた頃、『自分のせいだ』ど、ずっと思い込んでいました。今でもその気持ちは抜けずに残り続けていますが、私が祖父母の家に越してからは、少しマシになりました。
しかし、現在はまた別のストレスでよく体調を崩しています。私はストレスで体調を崩すというのを、入院したときに知りました。そして、起立性調節障害や、鬱病、多重人格なども、入院してから初めて気づきました。
現在私は祖母とバチバチにやる毎日を繰り広げています。私にとってそれはストレスであり、ずっと大好きだった祖母からの一種の『拒絶』が怖くて仕方ありません。最近ではとても不安定になりやすいのが、怖いのですが…それは、フラッシュバックなどがあるからです。私は辛いと、口に出すことが苦手になってしまいました。
お願い
別に、私の過去を知ったから優しくしろとはいいません。むしろ、今まで通りがいいです。皆様の優しさで、私は笑うことができます。心からの、本当の笑顔です。作り笑いなんかじゃありません。私は攻撃されることを恐がって前に進めないところもありますが、暖かく見守っていただけると幸いです。