無駄な遊びって??ー自然保育からの学びー
末っ子の通う野外保育園。
ここでは毎日、いろんな山道を歩いて、いろんな山とか川とか廃校校舎とかに、お散歩に行く。
夏はひたすら川遊び。
うん、
基本的には、毎日ただ歩いて、
自由に遊ぶだけ。
表面的にはそうなんけど、
それって実は、
めちゃくちゃすごいことだと
思ってる。
今日は山道を歩いて近くの廃校まで。
短めのコースだったけど、そこでの遊びが
また面白かった。
写真は、
グラウンドを平らに押し固めるローラーなのかな。
古くて何十年もそこに置いてあって、
大人でもびくともしないコンクリートの道具。
それを、何人かの子どもたちがひたすら
引っ張ったり、掘り出してみたりしながら、
なんとか動かそうと長い時間夢中になってた。
動かしたからと言って何かの役に立つわけじゃないし、そもそも動くのか?🤭と。
でも、ただただ、「これを動かしたい」という共通の目的に向かって、
こうした方がいい、
こっちから引っ張ってみよう、
こっち側を掘ってみたらいい?
枯れ枝で掘ってみたけど折れた、
掘るのに都合のいい、硬い枝はないか?
テコみたいに持ち上げられないか?
そこにいると今もし動いたら怪我するから避けて、
とか。
いろんな対話が繰り広げられてた。
ナチュラルに、
協力とか話し合いとか、
時には妥協とか、
危険に対する判断とか、
あるいは、
枝の手触りの違い、
力のかけ方で物がどう変形するか、
また、
いろんな素材がどういう性質なのか、
どういう体の使い方、素材の使い方をすれば
道具として使えるのか、
そんなことも、肌で学んでいる。
それって、
いわゆる、地頭が育つ、ってやつで、
学習に取り組んだときにも、
五感のデータの引き出しが大量に蓄積されているから、ものすごい吸収力と応用力と、ついでに集中力が発揮されることになる。
(まあ、それは2次的なオマケの効果でしかないとは思ってるけど。)
それ以上に、
夢中になってコンクリートの塊を動かそうとしている遊びの時間、そのものが宝物で、
「ただただ夢中で楽しい」という経験、記憶こそが、幸せの土を耕していて。
「今」の連続である人生を作っていて、幸せな人生って、その幸せな今の連続…
幸せな子ども時代は、幸せな大人時代を作る土台を作ってると思う。
もちろん、幸せかどうかは、
どんな環境で育っても
本人が決めることであって、
他人が作ってあげることはできないけど、
その土台作りを支えてあげることは、
大人の役目だと思う。
子どもは勝手に育つ。
その子が育つのに今必要なことは、子ども自身が本能的に知っている。
ほんとに、
大人の仕事は環境を与えること
がいちばんだなっていつも思ってるんだけど、
「仲間と遊ぶ環境」
これだけは親が家でどんなに工夫しても作ることはできない。
この保育園は何かカリキュラムがあるわけでもないんだけど、
集団教育の価値って、
ここに尽きるんじゃないかなって思う。
娘の保育園の保育を見学すると、
子育てにとっても、かまばの森にとっても、
本当に学びがいっぱい。
みんな、いつも一緒に育ってくれてありがとう。