障害者施設での新型ウィルス感染と差別
いま世界中で蔓延している新型コロナウィルス(COVID-19)だが,国内の感染確認数も増えている。そんな中,千葉県の障害者施設に暮らす人たちと職員の集団感染が確認されたと報じられた。真っ先に思い浮かんだのは,ここで暮らす人たちの治療で入院受け入れ先は見つかるだろうか,差別が露骨にぶつけられないかという心配だった。
たぶん多くの人は,街中で暮らしている障害者が増えているとしても,自分で自分を傷つける等安全を誰かが支えなければならない状態や,大声を出して自分の感情を表現するような人たちがほとんどいないことを知っている。誰かが支える関わりの量が多いほど障害の程度が重度と法律で定められ,家族と暮らしているか,それ以外だと施設で生活しているためだ(前者が多いこともつけ加える)。
障害とは「個人的な原因だけでなく環境によっても生じる」「全ての人は何らかの障害がある=生活機能は多様で相対的」とは,WHOが21世紀の最初に障害を考える枠組としてICF(国際生活機能分類)を発表した。これにしたがえば,知的障害のある人(以下かれら)も,周囲の人間や使う道具がかれらでも安全に使えるものに囲まれた環境なら,その人らしく生活できるのである。それはわかっているよと言われそうだが,今回の施設のように限定された場しかないのが日本社会の実情だ。そして,家族と施設職員と限られた支援者が関わりながら,安定した環境で生活している。これは少し表現を工夫したけれど,他に居場所がないかれらには,買い物や遊びに行く先も限られ,働いたり学ぶ場も施設の中,医療を受ける機会も限られているのが現実なのだ。
そんな貴重な生活の場で,COVID-19の集団感染が見つかった。普通なら専門の入院先へ隔離し治療される。でも,かれらはなぜ隔離されたか分からず,馴染の職員がおらず見知らぬ病室に移ればきっとパニックになるだろう。そこで,施設の中で赤と緑に分けて,隔離と感染予防がおこなわれることになる。表現はどぎついが「隔離された施設で隔離される」ことになる。
その人に応じた環境だからいいではないか,という声が聞こえそうだが,本当は地域で暮らせるようにするという国の方針(新・障害者基本計画)がこれまた21世紀の初めに出されたのに,施設でしか暮らせなかったという結果,隔離のなかで隔離になってしまう。
先日死刑判決の出た,相模原市の津久井やまゆり園の事件を思い出そう。被告は施設で暮らす障害者の尊厳も価値もふみにじる動機で犯行に及んだ。でも,今回の施設も,結局施設以外に居場所を与えなかった私たちの社会による差別の結果街の病院に行けないので,やむなく施設内で対応せざるを得ないのだ。
街中で一緒に生きていけるために,障害者と家族と支援者はほんとうに苦労してきた。ですが,「一緒に生きていく側にいる私たちは同じだけの努力をしてきたでしょうか?」と問いかけたい。やまゆり園の事件も同じだけれど,今回の施設での感染に対して,よそ事と思い,施設から出ないでほしいよね等と思っている人がいるかもしれない。
かれらに何ができるか知恵を絞ろうと思ってくれる人は少ないと思う。私も何ができるかさんざん考えて,お見舞い状のハガキを送ることにした。今できる事は限られていても,黙っていれば,障害を理由に排除し差別する人と同じだからだ。
大学生だった時,知的障害のある同年代の人と「夜遊び」するボランティアに関わっていた。その時は意識しなかったけれど,今風にいえばナイトケアの活動は,その後人を支えたり支えられることの大切さを研究する土台になった。読者のみなさんは,この施設と無縁でも身近にいるはずの人たちを思い浮かべてほしい。いろんな人がその人らしく生きているサポーターになれなくても,一緒に生きる社会だと考えてほしい。