悼むことは不正義だろうか
昨日(6月4日)は,天安門事件が起こった日でした。当時大学生だった私は,改革開放が進み身近になりつつあった中国で起こったこの事件で多くの同世代の若者が死傷し,亡命したことにショックを受けました。それからの年月は,現在の中国共産党政権が一国2制度をとる香港への介入を強めていくこと,台湾への国際的圧力を強めている事など,民主主義にとって大きな懸念を抱かせるものでした。とくに香港では,激しい抵抗にかかわらず自由を主張する人達が,COVID19の感染対策を名目に8人以上の集会が禁止されているにも関わらず,昨夜もこれまでと同じようにろうそくに火を灯し,天安門事件への追悼と,民主主義の大切さを訴えられたことに敬意を表します。皆さんが灯したのは良心の光だと思うのは,不透明な政策をまともな説明もしない政権がまかり通っている日本にとっても,希望に思えたのでした。
もう一つ,米国でGeorge Floydさんが警官の不当な暴力で殺された事に対する抗議活動をあげたいと思います。この活動に対する報道は,あたかも暴動のような振る舞いをするところが強調され,本来の意味を見失っている様に思われました。とくにTrump大統領は,抗議活動のきっかけをまったく無視し,軍による鎮圧も辞さないと強硬なツイートを繰り返していました。
でも抗議活動の中心はKing牧師がおこなったのと同じく非暴力だし,多くの人は犠牲になったFloydさんを悼むための活動なのです。大統領選挙を目当てにした政治家の動きはともかく,最も大切なことを私たちは見失わないでいたいと思います。それは,差別など人としての尊厳を損なうことは,民主主義ではいけないことであり,それを異議申立する抗議はもちろんですが,尊厳を損なうような形で犠牲になった人への追悼は民主主義にもとづく営みであり,追悼は正義を意味するからだ,と私は考えるからです。
さて,尊厳を損なわれた犠牲に対して悼むことは,司法や福祉を学ぶ上でも大きな意味を持っています。まず,思い浮かぶのは犯罪によって死傷された被害者,そしてその人達の家族です。いわゆる「被害者支援」は,山口県光市で奥様とお子さんを殺められた本村さんらが取り組まれてきたことで,近年ようやく法制化されました。でも私は,罪を償わせるべき犯罪をなした人にも,償うことに費やせる時間と機会,つまり悼むことのできる機会を作るべきだと考えています。被害者や遺族からは「そんなもの」という声も聞こえそうだし,その心情も分かるつもりです。けれど,最後の最後まで人間として罪に向き合う機会があれば,人間として罪を悔いて罪によって奪った命とその繋がりへのこころからの追悼はできる可能性があると思うのです。
ソーシャルワークを教えることとそれに従事する私は,IFSWという国際団体がこれの定義に「社会正義と人権がよりどころとなる価値」といっていることをいつも意識します。前者だけにたてば,もしかすると戦車に載る側だったもしれないし,後者だけなら被害者の名誉回復をのみひたすら願うことでしょう。ですがその両立を意識するとき,ソーシャルワークが司法の中でなすべき役割は,刑務官や保護観察所の下請けで社会復帰支援という名目で制度をあっせんするだけでなく,きっと本人にとって耳の痛いことだって言うような(それくらい相手のことを思って働きかける)こともあるはずだと思います。それを正義というか分かりませんが,相手に対しての真心ならば,それは正義なのでしょう。
何かの文芸作品で「誰かのために祈るというのは豊かなことだな」ということばが出てきます。その豊かさとは,どんなに小さな追悼であっても,それが自分の為でなく自分以外の誰かのためであることに大きな意味があるのだと私は思うのです。毎年,私の誕生日にメッセージを送ってくれる卒業生がいます。その度,いつも心が満たされる思いがします。誰かのために生きてきた人や生きている人にとって,何気ないことなのかもしれませんが,私は人間として心から感謝の念を抱くのです。至らない事の多い私は,まだまだ人間として努力しなければと思わされます。そんな私でさえこうなのですから,きっと他の人にとっても大きなチャンスであるに違いない,だからこそ,悼むことは不正義であるはずがないのです。