絵画的プールゲーム #風景画杯


 壁に二枚の絵画が掛かっている。

 どちらも摩天楼の中にある部屋の調度品と合わせるように直線的で幾何学的なアールデコ調の紺地に金で縁取りされた額に納まっているが、その内容はまるで正反対であった。

 一つは画布《カンヴァス》に敢えて荒々しく、しかし滑らかな油彩で描かれた二人の美しい紳士が座って何事か会話する絵である。
 二人とも高い丸襟の上等なシャツを着てリラックスした姿勢でそれぞれのソファに腰掛けている。
 片方の紳士は着こなされた三つ揃いの片手に雑誌を持ち、室内であるにも拘らず山高帽《ボウラー》を被り杖を小脇に抱え、艶やかに組まれた脚の先にはなめらかな絹織りの長靴下《ホーズ》とパンチドキャップトゥの良く造られた靴に包まれた脚が見える。
 他方の紳士は上着を脱ぎ、胴衣《ベスト》も着けずに鮮やかな緑のストライプが入ったフレンチカフスのシャツを剥き出しにして、プールゲーム(ビリヤードの事)のキューを持ち雑誌を持つ紳士と視線を合わせている。
 二人の不釣り合いな姿と、それでも情を感じさせる様子からするに、金持ちの集うカントリークラブかどこかの姿なのかも知れない。

 もう一つは荒々しく硬い色紙に木炭と僅かばかりのオイルパステルで描かれた無骨な炭坑夫の採掘作業を描いた絵である。
 鶴嘴《ツルハシ》を振う屈強な男は殆ど真っ黒な影として描かれ、掠れた黄色の紙の上で踊ってる。
 暗闇の炭鉱の中でさえ影の様に黒くなるまで汚れ、もはや何を着ているのかなど無意味になる程のボロを着た男は、それでもその鶴嘴を古い、次の岩を、その次の岩を、と16トンにも及ぶ鉱石を彫り、積み、運び、そしてまた掘る。
 その様が単純な構図であるにも拘らず見るものの内に立ち顕れるような絵である。
 それは、疑いようもなく、最も貧困な中で、己の体だけを誇りに岩盤と会社とに立ち向かう男の闘争の姿であった。

 この二つの絵の前に、紳士が二人、遠目に見ても上質な革張りのソファに腰掛け会話に興じている。
 まるで、一枚目の絵画のように。

「さて、君はこの二枚の絵をどう見るね?」

 最初の紳士が訊ねる。
 最初の紳士は、豪奢なアールデコに飾り立てられたこのクラブの中にあっては随分と緩いシャツにベルトを通したズボン姿に、一枚目の紳士同様、撞球のキューを持ちながら彼の友人らしい紳士に訊ねる。

「はて?『どう見る』とはどう云う事かね?」
 二人目の紳士が訊ね返す。
 こちらはキューこそ持っているものの、体の寸法に合わせた大きな検襟の着いたダブルブレステッドベスト姿に、糊で固めた高く白い丸襟にタイもしっかりと絞め、立ち上がると入念にプール台に張られた上等な羅紗の目を見始める。
 どうやら彼の手番に移ったところのようだ。

「僕等金持ちが集まるクラブにしては、随分な絵が飾ってあると思わないかい?」
 最初の紳士はソファ横のチェストの上にある銀の盆に置かれたスコッチのビンを手に取ると、その横にあるリキュールグラスに注ぎ、傍に燻らせてある太巻き葉巻を噴かした後、香りを愉しんでから一口呑む。
「まるで僕等が悪人のようじゃないか」
 スコッチの香りを鼻に抜かしながら、そう笑う。
 撞球台の上は彼に有利なように進んでいるらしい。

「『随分』とは随分な言いようじゃないか。僕等金持ちの実体を良く表しているよ」
 二人目の紳士はキューをあちこちに置きながら角度の計算を入念に行いながら言葉を続ける。
「僕等は慥かにこの豪奢な部屋を四隅で支えているアトラスと同じかも知れないが、そのアトラスの足元には驚く程の数のシーシュポスがいるのは、実際そうだしね」
 そう言うと、台の下側を見て、テクニカルブリッジ(注:指でキューを支えられない時に用いる道具)を取出す。

「そんな物を使うなんて、君も随分と臆病になったものだね」
 最初の紳士が目を細め、肩を竦めながら言う。
「君と違って、あらゆる事の拡張可能性を常に考えているだけさ」
 二番目の紳士が慎重にテクニカルブリッジを置きながら笑って返す。

「『拡張可能性』?それは面白いね」
 最初の紳士がもう一度葉巻を燻らせながら言う。
 重厚な香りの煙が彼の周囲に纏い付く。
「そう、そうすれば世界はいつだって面白くなるさ」
 二番目の紳士がもう一度ブリッジとキューの角度を確かめながら言う。

「なら、この二枚の絵も『拡張』してみないかい?」
 最初の紳士が煙を味わった後、スコッチを呑みながら提案する。
「『絵の拡張』だって?」
 二番目の紳士がキューのパッドにチョークを塗りながら訊き返す。

「そうさ。この二枚の絵に関して、僕と君、二人で来週のこの時間までに物語を考えるんだ。君は紳士達の、僕は炭坑夫のね」
 最初の紳士は再びスコッチの香りを鼻に抜かすと、ソファの上で大きく仰け反り提案を続ける。
「それで?どうするんだい?」
 二番目の紳士は再びブリッジを台上に置くと、キューを高い角度で置き滑り具合を確認する。

「その後、今度は交代して、君は僕の炭坑夫の話の続きを、僕は君の紳士達の話の続きを考えて、やっぱりその一週間後に話し合う。どう?面白そうだろう?」
 最初の紳士はそう言うと起き上がり、台の上を注視する。
「なるほど。それは面白そうだね」
 二番目の紳士は垂直に近くセットされたキューの殆どお尻を持つと、そのまま押して的球を打つ。

 押された的球はそのまま飛び上がり五番の球を飛び越えるが、台の羅紗に触れると同時に強いバックスピンによって五番球まで戻り、そのまま五番球を押込む。押された五番球は見かけよりも強く突き動かされると、その進行線上にあった七番球に浅く当たりそこで止まる。
 しかし、浅く当てられた七番球はそのままゆるゆると進み、その先に有った九番球に軽く半分程当たる。
 軽く当てられた九番球は最初緩く動くが、その動きはそのまま羅紗の摩擦に止められそうになるも、その摩擦力をやや上回り、徐々に加速しながら端にある穴に進み始める。

「な……」
 最初の紳士は有利を覆され驚く。
「いや、まだ……」
 二番目の紳士は不利を覆してなおその先を見る。

 九番球はそのまま穴に向かって進むも、穴の直前、僅かな羅紗の盛り上がりに阻まれる。
 二人の紳士がそれを注視する。

 九番球はそこで一度止まる。

 二人の紳士は依然注視する。
 最初の紳士はスコッチをもう一口呑み、二番目の紳士は打った姿勢のまま。

 九番球は再び動きだし、そのまま穴に落ちる。

ナインボールゲットアイヴゴット・ザ・ナインボール僕の勝ちだなアイ・ウォン
 二番目の紳士は片方の眉を釣り上げながら最初の紳士に振り返る。
「ムムゥ……」
 最初の紳士は片方の頬を釣り上げながら二番目の紳士に笑ってみせる。

「絵の話も、僕の方が面白いと思うよ、マーク?」
 二番目の紳士は勝った表情のまま告げる。
「さて、どうかな、マシュー?」
 最初の紳士は固まった唇はムリヤリ笑顔にしてみせて告げた。



「さて、どうかな、マシュー?」
 最初の紳士、マークが、今度は自然に笑いながら二番目の紳士、マシューに訊ねる。
 最初の紳士は、今日は紳士らしく三つ揃いにしているものの、それでも生地はベージュのヘリンボーンツィードにし、緩く糊付されたワイドスプレッドカラーの隙間から伸びるのはウールニットタイ、靴はウィングチップのコンビと崩している。
 最近、英国のウィンザー公がそんな服装をしていたのが雑誌に載っていたので、それを真似たのかも知れない。

「何故僕が最初なんだい?これは君の提案だろう、マーク?」
 二番目の紳士は抗議の声を上げる。
 二番目の紳士は前回同様、街着の中では礼装に近い服装をしている。
 ミッドナイトブルーのウステッドを検襟にし、共生地のダブルブレステッドベストのポケットからは懐中時計に繋がれた銀の鎖とチャームが覗く。そこに白く硬い丸襟にミントグリーンストライプのシャツと紺地にペイズリーのタイがカジュアルダウンしている事を示すが、それでも靴は黒いオックスフォードのパンチドキャップトゥにし硬さを譲らない。

「これもコイントスの結果さ。賽は投げられたのだから、後はその出目に従いたまえよ、マシュー」
 そう言ってマークは50セントハーフダラーコインを振り仰ぐと、それを指で弾いてマシューに投げ渡す。
「全く。運命の女神フォーチュナーには前髪しか無い事を後悔するんだな」
 コインを受け取ったマシューはそう言うと、懐からメモ用紙を取出す。
「どうせ次は俺が最初さ、マシュー」
「黙って聞きたまえ、マーク。『太初世界は言葉であった』、今からその『言葉』を始めるのだから」

「この絵、我等が立派な紳士二名は『何者にもなりたくない』のさ」
「『何者にもなりたくない』だって」
「そう。『何者」にも成りたくないし、成るつもりも無い。今からそれを話すから、静かに聞きたまえ」
 そう言うとマシューは話を始めた。
 その話とは、次の様であった。

 彼、ダニエル・コートマンが漸く今日着ていくシャツを決めた時には、着替えようと思ってから大分時間が経っていた。
 午後のコーヒーはクラブハウスで喫もうと思っていたが、今から自慢の直8エンジンで時速80マイルで飛ばしても随分と間抜けな時間にしか着かなそうなので、先に家で済ませる事にし、その旨を召使いのボーイ・ルイスに告げる。
「了解でさぁ、坊ちゃん」
 ボーイ・ルイスはそう言うと人懐っこい笑顔で会釈をして、燕尾服のお仕着せに付いた金ボタンをキラキラ踊らせながら部屋を出て行った。
 彼はダニエルが生まれる前からの黒人の使用人で、南北戦争の後一家共々解放奴隷となったが、義務教育の年齢は過ぎていた事もあり、そのままコートマン家に務めて続け、ダニエルがニューヨークシティに移ったときに一緒に着いてきた。
 そのせいか、ダニエルが長じてからも未だに彼を「坊ちゃん」と呼ぶが、ダニエル本人もそれを悪く思っていない為か、特に直す事もしなかった。

 ボーイ・ルイスが出て行くとダニエルはクローゼットの棚から今日着ていくことにした白地にキャメルイエローの縞が入ったブロードのシャツを取出し、さっとベッドの上に広げる。
 畳まれたシャツはふわりと広がり、滑らかに輝いた。
 サヴィルロウまで買い付けに行かせた生地をこちらのシャツやに仕立てさせたものである。
 その後、隣の棚にある襟置き場から糊で固められた高い丸襟を取出し、その手前にある箱から留め用金具スタッズを取出し、襟を左腕に掛けるとタイを選ぶ。
 タイはペイズリーの小紋にし、左腕に掛けた襟に通すと、それごとシャツの襟にスタッズで止める。いつもの事とはいえ、糊でガチガチになった襟にタイを挟んだり、首の真後ろに有るボタン穴にスタッズを通すのに多少苦労した。

「コーヒーをお持ちいたしやした、坊ちゃん」
 シャツを羽織り、前立てのボタンを留めて絹糸で刺繍が施されたサスペンダーを上げたところでちょうどボーイ・ルイスが入って来る。
「ああ、ありがとう」
「お安い御用で、坊ちゃん」
 ボーイ・ルイスはダニエルに人懐っこい笑顔で返答すると、持ってきた銀製の盆ごとコーヒーポットとカップ、クッチーの乗った皿をテーブルの上に置き、ポットからコーヒーを注ぐ。
 香ばしいコーヒーの香りが湯気と共に広がる。

「ああ、そうだ、ルイス」
 ダニエルはそう声を掛ける。
「ちょうど良いタイミングなので、喉元のスタッズとカフリンクスを留めるのを手伝ってくれないか?」
 ダニエルはそう言うと、ボーイ・ルイスの方に向き直り、シャツの袖口《カフス》を開いたまま、摘んだチェーン式のカフリンクスを振ってみせる。
「へへ。お安い御用でさぁ、坊ちゃん」
 ボーイ・ルイスはポットを置くと、ダニエルの方に近づき、カフリンクスを受け取ると、ダニエルが差出す袖口に片面を通し、留める。
 ダニエルは南部出身ではあるが、黒人に触れられそうになる事に然程抵抗は無い様子である。
「最近はトグル式やスナップ式のもあるようごぜぇますが、その辺りはお使いにならないんで?」
 カフリンクスを通したボーイ・ルイスはそのまま手をダニエルの喉元に持って行くと、そう言いながらシャツの襟と台襟を交互に喉元のスタッズで通し、スタッズの頭を曲げて留めた。
 留めるとき、パチリと小さな音がする。

「スナップ式はどうにも外れ易そうで苦手だな」
 ダニエルは顎を上げ、天井に向かいながらそう告げる。
「それに、あれは分厚くてね」
 ダニエルがそう言う間にも、ボーイ・ルイスは何も言われずにタイまで絞め、タイバーとベストをダニエルに差出す。
 ダニエルはそれらを何も言わずに受け取ると、バーを留め、ベストを羽織り、ボタンを留めていく。

「ささ、坊ちゃん。呑み易くなってまさぁ」
 ボーイ・ルイスは先程いれたコーヒーをダニエルに差出す。
「ああ、ありがとう」
 ダニエルはそれを受け取ると、一人用ソファに腰掛け、一口喫む。
「うん。これだな」
 そう独りごちると、カップをサイドチェスとに置き、ボーイ・ルイスに手を差出す。
「新聞か雑誌、あるかね?」
「へい、『フォーブス』と『コリアーズ』がごぜぇますが、どちらにいたしやしょう、坊ちゃん?」
 ボーイ・ルイスはクッキーの用意をしながら確認する。
「ん、では『コリナーズ』を」
「へい、少々お待ちを、坊ちゃん」
 そう言ってボーイ・ルイスはラズベリージャムを添えたクッキーの皿をサイドチェストに給仕すると、『コリナーズ』を持ってきてダニエルに渡した。
 ダニエルはもう一口コーヒーを喫んでからそれを受け取ると、そのまま目次を確認し、目に留まった幻想譚のタイトルをみると、そこまでページを飛ばして読み始めた。
 ボーイ・ルイスはそれを確認すると、何も言わずに部屋を出て行った。

 小一時間程して、ダニエルはより日が傾き始めた事に気が付くと、部屋の隅にあるボタンを押す。
「御用命は何でごぜぇましょう、坊ちゃん?」
 すると、一分もせずにボーイ・ルイスが部屋の入り口までやって来る。
「車の用意を」
 ダニエルはジャケットを羽織りながらボーイ・ルイスに告げる。
「もう、いつでも出られやす、坊ちゃん」
「ん」
 ダニエルは、それだけ返すと、部屋を出て表玄関に向かう。
 良く磨かれた廊下を伝い、大階段を廻って、玄関ホールに敷き詰められた大理石をカツカツと歩きながら玄関脇にいる使用人からトレンチコートを羽織らせてもらうと、そのままボタンも留めずにベルトだけ絞めて、既にエンジンが暖められたクーペに乗り込む。
 ダニエルは数回スロットルペダルを踏んで空吹かしさせてから水温計と燃料計、アイドリングが安定しているのを確かめると、ギアをローに入れ走り出す。
 暫く街中を走り、カントリーサイドに向けたフリーウェイに乗ると、そのままギアをセカンドに入れ、けたたましい排気音エグゾーストノートを上げると、夕暮れの中の風となった。

 ○

「と、どうだい、マーク?こんな感じは?」
 マシューはそう言うと、メモ用紙から目を離し、マークに視線を向ける。
「どうだい、だって?」
 マークは大きく肩を竦める。
「どうだいも、何も、ただ一人の男が身支度を整えて車に乗っただけで、まだ全く何も始まっていないじゃないか」
 そう言うと立ち上がり、最初の絵のキューを持つ紳士を指差す。
「それどころか、もう一人の紳士は出てきすらいないじゃないか」
 その指摘を受けるも、マシューは座ったまま肩を竦めて涼しい顔をしている。
「それは、君が考える余地を残しておいたのさ。敢えてね」
 そこでふと、マシューは左上を見つめる。
「それに『何も始まってない』なんて、『何者にもなりたくない』彼等にぴったりじゃないか」
 どこか嬉しそうである。

「ふん」
 マークは軽く鼻を鳴らすと、再びソファに腰掛ける。
「まったく、これだからショーペンハウアーとかを読んでいるヤツは」
 腰を下ろした勢いのまま、ため息のように言葉を漏らすが、マシューの耳には入っていた。
「寧ろ、僕が好きなのは、エマヌエル・カントやデカルトの方だよ?」
 そして、心外だ、とばかりに大仰に驚いてみせる。
「君のようなのは、哲学よりも先にボートやポロをやり給えよ。『健全な精神は健全な肉体に宿る』さ。『健全な哲学』とは何かを見せてあげよう」
 マークはそう言うと、ソファ横のチェスト上にあるフォルダを取り、もったいぶってタイプ打ちのレター用紙の束を取出す。
「ユウェナリスの『風刺詩集』かい?」
「君はハーヴァードで『皮肉学』でも専攻したいのかい?」
 マークはマシューの言葉にはさして留められず、レター用紙に目を落とした。
「まあ、先ずはご清聴あれ、さ」
 そう言って一つ咳払いをする。

「これは、代々寒冷な気候に鍛えられ、灼熱の厳しい環境の中で磨かれた男の肉体と精神の話さ」
「ん?『進化人類学』の話かい?」
 マークの口上にマシューが疑義を挟むが、マークは気にせず、そのまま続ける。
「まあ、先ずは聞きたまよ」

 ここはペンシルヴェニアの無煙炭田、標高数百フィートの鉱山の表面から地下へ軽く1マイルは潜った灼熱と暗闇の世界。
 巨大な蒸気釜と圧力装置、酸素を送る蒸気機関にこれまた巨大な車輪やそれに組み合わされた滑車が幾重にも層をなしてはエレベーターを、コンベアーを、トロッコを、人も土塊も貴金属も運び、それらが釜の蒸気を1オンスも無駄にすまいと24時間稼働し続ける巨大複合機械。
 あちこちでバルブから蒸気が漏れ、或は歯車がひしめき、メーターが廻る。

 そして、トロッコから運ばれた土塊は、そのまま精製され、ダボ山と石炭、即ち黒いダイヤを吐き出し続ける。

 ここで掘られる無煙炭はこの鉱山街に張り巡らされた簡易鉄道と運河を通じて全米各地オールオーバーステイツに運ばれ、蒸気機関に、開拓に、発電所に、そして家々のストーヴやオーヴンを暖める為に使われる。
 そして、そこで作られた電気が、エネルギーが、人々の活力が、再びこの合衆国全体を輝き照らす。

 そんな冨と危険の奈落の奥底から、1台のエレベーターがもの凄い速度で引き揚げられてくる。
 その籠の中に灼熱と暗黒の中で戦う屈強な男達を乗せて。
 もしエレベーターの操縦者がタイミングを一つでも間違えれば、そこに乗る一個小隊は全員がすぐさま挽肉になってしまう程、滑車はワイヤーを勢い良く巻き上げる。
 操縦者は、しかし、操作を過つ事なく、適切なタイミングでクラッチを抜き、ブレーキを掛ける。
 耐熱陶器で挟まれた金属ワイヤーが火花を上げ、暗闇の中で待ち構えるスプリングやダンパーを照らし出す。
 急激な減速が籠の中に強烈な慣性負荷をかけるが、中の男達は泰然としている。
 既に、行きの時点で自由落下に近い負荷に耐えているのだから、当然である。

 棺桶と紙一重の昇降機の箱が行きよい良くタラップに近づく。
 火花を上げたワイヤーは赤く光、籠のダンパーが昇降装置のサスペンションに辺り、大きくスプリングが縮む。
 急激に圧縮された事で熱を持ったダンパーオイルによって膨張した空気がバルブを通じて排出され、プシュと大きな音を立て、その後、クラッチを抜かれた昇降機の滑車の動力シャフトが空転する音が引いて行く。

 チン

 安全装置によってロックされ、籠の扉が開く準備が整ったベルが鳴る。

 プシュー

 扉内の圧縮蒸気が抜かれ、白い冷えた蒸気と共に扉が解放される。

 そこから現れるのは、鍛え抜かれ、美しく汚れた屈強な男達。
 鶴嘴とヘルメット、ジーンズで武装した現代の戦士達。

 彼等は蒸気の鳴物に迎えられ、堂々と地上に繋がる通路に出て来る。
 その顔は自身に満ちていた。
 彼等が出て来る横では幾つもレンズが付いたルーペを額に着けた地質学者がサンプル用の鉱石を砕き、獲物を鑑定する。

「これは上等だ……」
 思わず嘆息の声を漏らす。
「当然だろう?俺たちが採ってきたんだからな」
 戦士達の中でもリーダー格の男が当たり前のように告げ、通路の先に見栄を切る。
 通路の先には縞ズボンに三つ揃い、山高帽を被った恰幅のいい男が立っていた。
 その上等な服を着た男は地質学者から渡されたデータを見ると、満足したように頷き、暗闇から生還した戦士達に顔を向け、軽く会釈する。
 戦士達はその会釈を見ると、通路の向こう、外界へと向かって歩きながらヘルメットを脱ぎ挨拶をしながら、結果を見ている男に近づく。

「今回もご苦労。ボーナスだ」
 三つ揃いの男はそれだけ言うと、戦士達のヘルメットに札束を投げ込んで行く。
 男の声は後ろでけたたましく鳴る蒸気機関と歯車の男に掻き消され殆ど戦士達には聞き取れなかったが、札束分増えたヘルメットの重さを腕に感じながら、山高帽の男にウィンクを返す。
 そのままぞろぞろと外界への行進を続けていくと、後ろでダイナマイトが炸裂する爆発音が響く。

「崩落事故か!?」
「消火器の用意は!」
「イヤ、大丈夫らしい!」
 後ろで様々な声が行き交う。

 戦士達は職員達の声から安全を確認すると、肩を竦め、そのまま外界に出て行く。
 暗闇の炭鉱から外界に出ても、そこに広がるのは星空であった。
 24時間動くこの巨大機械には昼も夜も関係無い。
 戦士達の今回の任務は昼から深夜へのシフトであった。
 戦士達は星空を見ながら紙巻きタバコやパイプ、葉巻に火をつけ、漸く一息入れる。
 様々なガスが噴出している炭鉱内では決してできないブレイクの煙草。

 静寂な時間。

 その後、たっぷりと肺に入った煙を吐き出すと、視線を下に向ける。
 金属や木材を組合せて作られた足場の下には、24時間稼働する炭鉱に合わせて広がった24時間輝く不夜の城下町が広がり、戦士達の手柄によって灯された電灯が酒場、劇場、娼館……様々な娯楽を浮き上がらせていた。

 戦士達はそこで一服しながら各々の手柄を自慢し、讃え合うと、タール等の染み付きそうな汚れを落とすべく、各々の家に向かった。
 そして、そのまま家族と共に過ごす者。
 着飾り、夜の街に繰り出す者。
 シャンパンを開ける者。
 女を巡り殴り合う者。

 各々が各々の命懸けの手柄をカネにし、それぞれの命を輝かせる。
 幾らでも稼げる。
 幾らでも積める。

 この屈強で頑健な体と、強靭な精神を使って、この世界だって輝かせてみせる。
 それが、この街の戦士達である。

「どうだい?」
 マークはレター用紙から顔を上げると大見得を切ってマシューに顔を向ける。
 声をかけられたマシューは目を半開きにしてため息で応える。

「マーク、君こそ、状況描写ばかりで『物語』なんてどこにも無かったじゃないか」
「何を言っているんだ?英雄譚は大抵こう、英雄達の状況描写から始まるだろう?つまり、これこそが現代の一大英雄叙事詩、と言う訳さ」
「そうかい。それと、それは君の炭鉱をモデルに書いたのかい?」
「当たり前だろう?僕の家の炭鉱にいるのは、こう云う屈強で素晴らしい戦士達ばかりさ」
 マークは誇らしげにそう言うと、レター用紙を扇のように左右に拡げる。

「仕事は充分立派かもしれないが、少なくとも、『健全な精神』は見えなかったね」
 しかしマシューは肩を竦めてそれだけ返す。
「何だって?」
 マークも、実に心外だとばかりに両手を拡げてマシューに反論する。
「少なくとも、君の頽廃主義的倦怠感よりは余程『健全』じゃないか」
「何を言っているんだ。僕のは、正しく僕達自身の頽廃を内省的に見詰めた、正しく写実主義的近代小説じゃないか」
 マークの反論に対し、マシューは文学論で返す。
「まあいい、次は、お互いにそれぞれの物語を交換して、その続きを描くんだ。楽しみにしているよ」
 マークは方眉を上げると、挑戦的な視線でマシューに告げた。
「ああ、楽しみにしていてくれ給えよ」
 マシューもまた、マークと同じような表情で応えた。


「さあ、マーク、今度は君からだ」
 マシューは待ちかねたようにマークに話し掛ける。

「よくよく考えたら、前回も僕で、その後も直ぐに僕から始まるの、随分と言えば随分だな」
「何を行っているんだ?これは君が言い出した話だろう?」
 マークの不服にマシューは当然のように応える。
「それはそうだが、前回の君に『何者にもなりたくない、ただ身支度だけした紳士』の続きに『健全な精神』を入れ込むのには随分と苦労させられたよ」
 そう言って、マークは再び大仰な革のフォルダから立派なレター用紙を取出す。

「無理に組み込む必要はないさ。寧ろそのまま『何者にもならない話』を続けてくれた方が、僕としては嬉しいよ」
 マシューは何事もないようにそのまま流した。
「あんな話、そのまま続けられる訳が無いだろう?まあ、ここから始めるさ」
 そう言うとマークは、またしても大仰にレター用紙に目を落とした。

○○

 スーパーチャージャー付きの直8エンジン音はエンジンフードやフロントシールド越しでも運転するダニエルの耳に馬が駆けるように届き、シャーシやボディ、ステアリングホイールを伝ってその力強い振動を与える。

 宵闇迫る夕暮れの中、都市部とカントリーサイドを結ぶ橋の上をただひたすらに走り、薄暗がりの中をヘッドライトが照らす。
 ギアをサードに入れると回転数は一時的に下がると同時に加速し、時速は80マイルを越え90マイルに迫る勢いを見せる。
 シートの背もたれに押付けられる慣性を受けたダニエルは、そのエンジンの振動と相まって、下腹部から込み上げるような興奮を覚えた。
 タイヤが捉えた路面の凹凸はスイングアームとサスペンションを通じて、衝撃を落とされ、その感覚だけ伝えてくる。

 そのままハイウェイを走り続け、下道に降りると、郊外の並木道の間を進む。
 下道ではあるが、殆ど信号も交差点も無いため速度は殆ど落とさずに走り続けた。

 日が暮れる直前、丁度空腹を覚え始めた頃、ダニエルの車はカントリークラブハウスに辿り着く。クラブハウスはバルコニーを具えたフレンチコロニアル様式にアールデコの装飾を組み合わせた外観をしていた。
 クラブハウスのエントランス前ローターリーには、丈の短い金ボタンの詰襟にピケ帽のポーターが控える。
 ダニエルはその前で車を停め、降りるとそのままチップを渡して引き換え用の番号札を受け取り、ポーターはそのまま車に乗り込むと、駐車場までダニエルの車を回した。
 駐車場には他にも高級車が並び、展示会場のようであった。

「ウィスキーを一つ」
 ダニエルはクラブハウス内に入り大理石の床を進むと早速バーカウンターで飲物を頼む。

「どうぞ」
「ありがとう」
 バーテンダーがウィスキーをクリスタルグラスのリキュールグラスに入れてダニエルに渡す。
「ところで、ジョン……ああ、詰まりハンツマンはいるかね?」
「ミスター・ハンツマンで御座いましたらプール台の方に」
「ああ、ありがとう」
 ダニエルはそう言うとカウンターに紙幣を置き、プール台へ向かった。

「ああ、ダニエル、待ちくたびれたぞ」
 そこには葉巻を咥えながらキューを念入りに見ているジョンがいた。
 彼は既に上着を脱ぎ、ベストも着けずにシャンパンを飲んでいた。
「飲むかい?」
 ジョンは直ぐに横を向き、氷の浮いたワインクーラーからシャンパンのボトルを出そうとする。
「いや、今そこで君の場所を聞くついでに頼んだから、今は大丈夫さ」
 ダニエルはそう言ってリキュールグラスを掲げる。
「なるほど。乾杯!」
「乾杯」
 ダニエルとジョンは互いのグラスをやや傾けると、挨拶とした。

「や、遅れてすまないね」
 ダニエルはウィスキーを一口飲むと、ジョンに詫びる。
「いや、本当に。夕方までには来るかと思ってテニスコートで待っていたのに、結局ボールボーイをしてしまったよ」
 ジョンはシャンパンを半分程飲むと、笑って言う。
「で、日が暮れてしまったから、ラケットをキューに持ちかえて、ここで待っていたよ」
「ゲームの調子はどうだい?」
 ダニエルはプール台の上のボールの位置を見る。
「もう少しで落とせるかな」
 ジョンはそう言うと、キューを構える。
「そのようだね」
 そう言ってウィスキーを一口呑む。
「ところで……」
 ダニエルはボールの軌道を確認しているジョンに話し掛ける。
「ところで、そちらの調子はどうだい?」
 何と言うことのない会話である。
「調子だって?今日は少し右にそれ気味かな」
 ダニエルは球を弾きながら応える。

 的球が6番球に当たり、弾かれた6番球が8番球をポケットに押込む。

「ほら。もう少し寄せたかったんだ」
「君の腕の調子じゃないよ」
 ダニエルはウィスキーをもう一口含ませる。
「なら、何だい?」
 ジョンは今度も6番球に狙いを定め、もう一度軌道を確認する。
「このご時世の調子さ。あちこちで百万長者も億万長者も生まれてるんだ、君の方はどうかな、と思ってね」
「ああ、なるほどね」
 ジョンはそう返すと、再び的球で6番球を弾く。

 6番球は今度は大きく反対側のクッションに当たり、反射して9番球をポケットに落とす。

「御覧の通りさ」
 ジョンはどうだと言わんばかりに胸を張る。
「素晴らしいね」
 ダニエルは軽い拍手を送ると、再びリキュールグラスを掲げる。
 ジョンもシャンパングラスでそれに応える。
 そして二人は同時にグラスを傾け、残っていた酒を飲干す。
 そのまま、二人はソファへ向かう。

「僕も貰おうかな」
「おう」
 ダニエルがシャンパンのグラスを出そうとすると、ジョンが先回りしてグラスとボトルを取出す。
 シャンパンを注がれたグラスにみるみる結露が浮かび、周囲に冷気が漂う。
「はいよ」
「ありがとう」
 二人は再びグラスを掲げあう。

「『フォーブス』なんかを見ると、ウォールストリートは随分と盛況なようだけど、君の処はどうだい、ジョン?」
 ダニエルは軽くシャンパンの香りを愉しんでからもう一度ジョンに訊ねる。
「うちはそもそも炭鉱なんかの一次・二次産業が主だからね。株でどうこう、と言うのとは遠いかな」
 ジョンはシャンパンを大きく呷るとそう言う。
「君のところこそどうなんだい?」
「僕のところかい?あまり深くは知らないけれど、まあ、農場経営はもう半世紀以上前に引き揚げているし、工場の方はこの前の戦争で大分儲かったようだね。今はキューバやアルゼンチンなんかの海外拠点に投資している段階かな」
 ダニエルは他人事のように言う。
「まあ、実際は任せきりで、僕は詳しく知らないのだけれどね」
 そう言って肩をすくめる。
「うちも、そろそろ国外にも資本投下しようかな、と思っているところさ。特に、最近は石油が上がってきていて、船なんかも重油で動く時代だからね。そうなると石炭の需要も危ないから、早めに移しておかないとね」
 ジョンもどこか他人事で言う。
「まだ電力での需要はあるだろ?」
 ダニエルが訊ねる。
「そうだが、それだって国内で作るより海外から仕入れた方が安くなればお手上げさ。現に、もう南米辺からは大分安く仕入れられるからね」
「ま、金融がこれだけ膨れると、銀行も危なっかしい事もし出すだろうから、早めに移っておかないとね」
「そ、プールゲームやチェス同様、先を見越して打って行かないとね」
 そう言うと、2人してシャンパングラスを空ける。

「で?どうだい、1ゲームやっていくかい?」
 ジョンは親指でプール台を指し示す。
「そうだね」
 ダニエルはそう言うと、上着を脱ぎ、キューを選び始める。
「負けた方が次のシャンパンを入れる事にしよう」
 ジョンは葉巻を噴かしてそう言う。
「なら、次も君の御馳走になるな」
 ジョンとダニエルは笑いながら視線を合わせる。

 こうして2人は朝までゲームを愉しんだ。

○○

「と、どうだい?」
 マークは得意げにマシューに顔を向ける。
「ん?これでお終いかい?」
 マシューは困惑の表情を浮かべる。
「マーク。冗談は止してくれ給えよ」
 マシューはため息を吐きながら頭を振る。
「今の話のどこに『健全な精神』も『健全な肉体』も出てきたんだい?」
 そのまま両手を拡げながらマークを問いただす。

「『どこに』だって、マシュー?」
 マークはさも心外だ、と言わんばかりに大仰なポーズを取る。
「どこもなにも、カントリークラブに通いスポーツで体を鍛えつつ、社会情勢も見据えて常に学び、動き続ける、正しく現代の『哲人』にして『健全な肉体に健全な精神』を宿した近代人精神の鑑じゃないか」
 マークのこの言葉にマシューは方眉を上げて面を喰らったような顔をし、しばし絶句する。

「なるほど……」
 漸くマシューが口を開く。
「なるほど、どうも君が言うところの『哲人』や『健全な精神を宿した健全な肉体』と言うのは、主に金儲けの為にその才覚を使う人々のことのようだね。僕は誤解したかい?」

「何を当たり前の事を言っているんだい?」
 マークは、あまりにも自明な事を問われたかのように唖然とする。
「各々が各々の力を最大限顕そうと努力するのは神が与えたミッションじゃないか。そして、今は資本主義の世の中なのだから、それは稼いだカネや鍛えられた肉体で分かりやすく表されるんだ。どれだけ頑張っているか、が数字で判り易く出てくる、素晴らしい世の中じゃないか。文明万歳だ」

「ああ、そうかい。なら、その考え方、僕の話を聞いて、少しは弁証法的に止揚するよう試みてはいかがかな?」
「何だって?」
「その『鍛えられた肉体と精神』も、時と環境に恵まれなければどうなるか、ちょうど僕はそんな話を考えてきたのだから、君にとっては良いアンチテーゼになると思うよ?」

 そう言ってマシューはノートを取出すと、語り始めた。

++

 それは、昨日と同じ朝だった。
 或は、一昨日と同じかも知れない。
 恐らく明日も同じ朝だろう。
 教会に行く日曜日を除いては、一切は同じなのだ。

 朝と言っても日が射す前の時間である。
 その中をジョセフは毛布をはぎ、上半身だけ起こす。
 ストーブの中の種火だけが光源である。
 ベンチのようなベッドの脇に掛けてあるコーデュロイのシャツを手探りで掴み、肌着の上から羽織り漸く全身を毛布から出す。
 まだまだ肌寒い。
 マッチで近くにあるオイルランプを灯す。
 これでやっと部屋の中が見渡せる。
 人一人が過ごすのに最小限の部屋である。

 ジーンズを履き、ベルトで留め、殆ど残っていない歯を濯ぎ、通り一遍の身支度を整えると、そこら辺の木材で組み立てた祖末なテーブルと呼べるような台の上に置きっぱなしのパンを切り、やはり置きっぱなしのバターを塗りたくると、それを頬張り、水で流し込む。
 いつもと同じ朝食である。
 パンを更に数切れ切り分け、バターを塗ると、粗末な木綿のハンカチで包む。
 これと水筒に入れた水が彼のいつもの昼食である。

 しばらく窓の外を眺めていると、鐘の音が響く。
 時間である。

 ジョセフはブーツの紐を絞めると、これまた傍に放ってあるツイードのジャケットを羽織り、鳥打ち帽を被ると金具で留められた小さな木製の戸を開け、表に出る。
 いつもと同じ服装である。

 ジョセフの部屋は寮の二階で、下の階にも同じような部屋があり、同じ構造の建物がそれぞれの平地に合わせて繋がれ、置かれている。
 同じ玄関、同じ屋根。
 外階段の位置まで同じである。
 そして、それぞれの扉から、ジョセフと同じような格好の男達が出てきて、同じ場所を目指す。
 同じ場所、つまり、炭鉱の入り口を。 
 それも、歩いて数分の直ぐ近くにあった。
 巨大な煙突の傍の巨大な車輪の下に、小さなれんが造りの小屋がある。
 同じような格好の男達はその小さな小屋の小さな入り口を目指し、ぞろぞろと入って行く。

 その中は広かった。
 山をくり抜いた巨大なホールが広がる。
 名札をパンチボックスに通し、時間を記録すると、そのまま奥へと進んで行く。
 その奥には各々に割り当てられた小さなクロークが並ぶ。
 その扉に名札を掛けると、クロークの戸を開け、上着と帽子を掛ける。
 
「おい、42番路が崩落したらしいぞ」
「ジョンのヤツは爆発に巻込まれたらしい」
「今日、この後どうするよ?」

 周囲ではそんな話合いもあるが、ジョセフは寡黙に身支度を進める。
 奥にある皮とカンバスを重ねて固めたヘルメットにランタンを付けるとそれを被り、顎紐を留める。
 締め心地を確認すると、次に金槌と鶴嘴、スコップが納められた作業用ベルトを腰に付ける。

「よーし!お前等!今日は38番路だ!」
 班長がそう叫ぶ。
 それを聞いた皆は、そこに向かう軽便鉄道に繋がれたトロッコに次々と乗り込む。
 もう、この段階で蒸し暑くてしょうがない。
 どちらが荷物なのか判りはしない。

 そのままトロッコは38番路に繋がるエレベーターの前にあるプラットホームの前まで男達を運ぶ。その中にはまだ年端も行かない少年も混ざっている。
 周囲では排水用ポンプが稼働する音が響き、遠くでダイナマイトが爆発する音が聞こえる。
 この集団が次々とエレベーターのゴンドラに詰め込まれて行く。
 一定の人数が乗ったゴンドラは、扉を閉めるとそのまま落下していく。
 地下1マイルまでの道のりは自由落下による。
 靴底の感覚が薄くなり、内臓が押し上げられ、水筒の水がぽちゃぽちゃと浮かぶ。
 上の機関士が操作を誤ればこのままみなミンチである。
 睾丸に手を当て、歯を食いしばり、耐える。

 数秒過ぎると、減速が始まる。
 ワイヤーに繋がれた滑車が火花を上げ、ブレーキパッドが真っ赤になる。
 ここでも同じ姿勢を取る、同じような格好の男達が耐える。

 無事目的の階層まで辿り着く。
 ゴンドラは積荷を人の形のまま吐き出すと、直様もの凄い勢いで昇って行く。
 人もポンプで移動させられるのだ。

 そのまま、木枠で補強こそされているが、水に湿る通路を歩いて行く。
 通路の横には簡単なレールが敷かれ、小さなトロッコが採掘した物を運べるようになっていた。
 その通路の先には巨大な蒸気機関で動く、チェーンソウの怪物のような機械が置かれている。
 その機械の前まで行くと、男達は上に来たシャツを脱ぎ出す。中には完全に上半身裸になるものも多い。
 とにかく蒸し暑いのだ。
 本来ならヘルメットを被る規則だが、そんな物は着けていられない、と外す者も多い。
 この前はそれが原因で砕けた岩に当てられ死んだ者もいたが、それを直に見てもなお、外す者が多かった。

「よーし!ここにしよう!」
 班長の叫び声。

 班長が機械を当てる場所を定め、その場所を確保する為に、男達が作業を開始する。
 とにかく手で掘り、砕き、土を除ける。
 この作業を延々繰返す。
 大きなところは大男が、小さなところは少年が、やはり手で掘り、砕き、土を除ける。
 一人が歌い始める。
 炭坑夫の歌である。
 
 一人が節回しを叫び、周囲が応える。
 一定のリズムで。
 鎚音に合うように。
 アイリッシュが多いこの地域では、やはりアイルランド系の節回しが流行る。

 どれだけの時間が経ったかは判らないが、皆真っ黒になりながら掘り進めると、硬い岩盤に当たる。

「ダイナマイトだ!」
 班長が叫ぶ。

 数人の専門の男達がダイナマイトを仕込む。

「皆離れろ!耳を塞げ!3、2、1、発破!」
 班長が叫ぶ。

 皆、300フィート程離れてから、耳を塞ぎ、目をとじ、口を開けて伏せる。
 爆発。
 耳鳴りで何も聞こえない。

 班長が何か叫んでいる。
 どうやら成功したらしい。
 その後、細かい作業を少年達が行うと、そのまま巨大な採掘機械を設置する。
 機械は蒸気と煙を吐き出しながら、刃の着いた鎖を巻込み、回転させ、鉱石を砕き、切り裂く。
 そうして砕いた物は、自動的にトロッコにコンベアで運ばれていく。

 主たる仕事はこの機械の物で、ジョセフ達人間は、多大な苦労でもって機械に仕える下女《はしため》に過ぎなかった。
 とにかく、この機械が中心であり、この機械のご機嫌伺いとお世話こそが、この暗く蒸し暑く、死と汚れに満ちた穴蔵でのジョセフ達の仕事であった。
 なにせ、この機械一台で人間100人分は働いてくれるが、同時に人間1000人分の値段もする。
 鎖や歯車が熱を持たないように油を注ぎ、この機械陛下の動き易いように足場を整える。
 そのための人間の手足であり、命であった。

「よーし!一端休憩だ!」
 班長が叫ぶ。

 この班では班長しか時計を持っていない。
 いや、他にも持っている者は多くいるが、そんな高価な物をこの穴蔵に持込む者は少なかった。
 ジョセフ達は油とタールで真っ黒な手のまま、各々が持ってきた、同じような昼食を頬張り、水で流し込む。

「よーし!作業再開だ!」
 どれだけの時間休めたかは定かではないが、ほんの半時間も無かった事だけは、何となく体で分った。
 しかし、誰も文句を言わずに作業を再開する。

 また、誰かが歌い出す。
 皆が応える。
 同じ歌を。
 同じリズムで。
 鎚音に合わせ。

 同じように。

「よーし!作業終了だ!」
 休憩前を同じような時間が、同じように過ぎたころ、同じように班長が叫ぶ。

 皆、疲弊し切って、無言で身支度を始める。
 同じように真っ黒になりながら。

 そして、重力の向き以外は来たときと同じようにゴンドラとトロッコを使って排出され、同じように着替え、同じようにタイムカードを切る。
 記録では11時間が経っていた。
 タイムカードが打刻された場所と時間、行きにいた別の班が埋められた事だけが違った。
 他の班にはボーナスが出たようだ。どうやら良いものを掘り当てたらしい。

 それでも、同じ様な格好をした男達が、同じ戸口から出て行き、同じように歩いて行く。
 中にはこのまま遊びに行く者もいるようだ。

 これだけの危険と鬱憤の溜まる仕事である。
 その気を紛らわす為の酒場や娼館には事欠かない。
 だから、街並は他の町と違って、キラキラと輝いて見える。
 どうせ日が昇れば同じなのだが。

 ジョセフは帰りがけにハンバーガーとコーヒー、ウィスキーの小ビンを買い、いつもと違う夕食を取る。
 今日は彼の誕生日なのだ。

 そのまま、いつもと同じ小屋に戻り、いつもと同じ戸を潜り、いつもと同じストーブにコークスをくべると、いつもと同じテーブルで食べる。
 いつもと違うハンバーガーを。

 一通り食べた後、ウィスキーを直接小ビンから呑み、一息いれる。

「何でもない日、万歳」

 ジョセフはそう小さく呟くと、軽く身震いし、毛布を羽織ると、そのまま眠ってしまった。

 明日も同じ朝が始まる。

++

「と、どうだい、マーク?これが本当の『お話』と言うものさ」
 マシューはノートから目を上げると、そう得意げにマークに言う。

「これが『お話』だって?」
 マークは実に不満気に返す。
「僕が折角『市中の英雄』、『現代のアトラス』の英雄譚を描いたのに、君はそれを全く逆のシーシュポス的なプロレタリアート文学にしてしまったじゃないか」
 マークはそのまま不満を続けた。

「何を言っているんだい?僕は最初に言ったじゃないか。『この二枚の絵の並びは、正しく僕達の姿を描いている』ってね」
 マシューが反論する。
「僕達は、自分達の土台が何に依ってできているか、それを自覚する必要があるし、それを自覚する事こそ『哲人』の条件じゃないか」
 そう言って、マシューは自分の磨き抜かれた靴を指差す。

「何を言っているんだ。労働者は、その労力を自身の生活の向上に投資しないからその場に留まっているんじゃないか。少なくともこの合衆国では、生まれの身分に拘らず成功する事ができるんだぜ?」
 マークも反論を続ける。
「それとも何かい?マシュー、まさか君は、あの怠惰な労働者のルサンチマンの権化たる共産主義に屈服したのかい?」
 マークは「共産主義」の部分に充分なアクセント置いて話す。

「まさか?僕だって自由を愛する者の一人だし、だいたい共産主義なんて原理的に不可能な物に与する気はないよ」
 マシューは心外だと言わんばかりに応える。
「ただ、マシュー、君が物事の上澄みしか見たくないようだから、その足元も見るべきだし、それこそが『高貴なる責務ノブレスオブリージュ』だと言いたいだけだよ」

「だとしても、だ、マシュー。君は厭世的に過ぎるね」
「いいや、マーク。君こそ楽観的に過ぎるんだ。いや、享楽的とさえ言っていい」

 2人の紳士の言い争いが続く。

「しかし、マシュー。これでは決着が着かないじゃないか」
「それには僕も同感だね、マーク」

 2人の紳士はここで意見の一致を見る。

「そこで、だ、マシュー。丁度そこにもう一人参加者がいる」
 そう言ってマークはこちらを向く。
「ああ、そうだね、マーク。そこの人は先週も先々週もここにいて、僕達の話を聞いていたね」
 マシューもこちらを向く。

「ねえ、君、そう、そこの、今僕達を見ている君」
「そう、君だよ」
 マークとマシューの視線がこちらに向けられる。

「「君は、どう思ったね?」」

 マークとマシューの声が重なった。
 こちらに向けて。



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