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なぜ「寿司ペロ行為」は後を絶たないのか?

<迷惑行為の動画が後を絶たない>

「後を絶たない」なのか、今回の騒動に端を発して昔の動画が引っ張り出されているだけなのかはわからない。まぁ時系列はどうでもいい。

このたび大騒動になった「スシローで醤油ペロ少年」以外にも、回っている寿司に消毒液を吹きかけてみたり、電車の中でサスケをかましてみたり、子猫を楽しげに虐待してみたりと世のTikTokerはやりたい放題だ。

終電間際に急いで電車に向かう人に、まるで「ここは俺が引き受けた!構わず先に行け!」と、追われている仲間を逃がすかのごとく刹那の足止めを喰らわす迷惑な輩もいる。


ほとんど使っていないTwitterをたまにチラリと除くとこんな動画に溢れている。惨憺たる光景である。恐らく日常的にTwitterやTikTokを使っている人はもっと多くのこうした事例を目撃していることだろう。世も末だ。


著しく倫理観や道徳観を欠く行為、「迷惑」という概念すら持ち合わせていなさそうな行為、「バズりさえすれば」と平気で他者を傷つけたり不快にさせたりする行為、

こうした行為を、後先考えずにやってしまう(ひどい場合はしたり顔でそれを自らSNSにアップしてしまう)人たちのことを便宜上『ぺろニキ』と呼ばせていただく。


こうした多くのぺろニキについて、「ぺろニキ最悪!氏ね!」と糾弾することは簡単だが、それでは根本的な解決にならない。いずれまた第二、第三のぺろニキはいずれ発生する。(もはや第2865とかかもしれないが。)


だから、ぺろニキが誕生する背景を真剣に考えてみた。


<何がぺろニキをぺろニキたらしめるのだろうか?>


先に言っておくと、私はぺろニキについては、
「環境が生み出した悲しきモンスター」だと思っている。


つまり根っからの悪人なのではなく、生まれ育った環境や受けてきた教育、これまでの経験、社会情勢などが諸々相まった結果、晴れてぺろニキとしてデビューするに至ったのだと考えている。

特にここ数年のコロナ情勢が若者に与えた影響は大きいと思う。

大人からすれば「たった数年、人との交流や移動が制限されただけでしょ」という感覚かもしれないが、中学や高校、大学など「青春ど真ん中」を生きていた若者にとって、その「たった数年の制限」がもたらした負の影響は計り知れない。

「青春を奪われた思春期の子供たち」にどんな心情の変化があったのか、個々のアイデンティティ形成にどんな影響が加わったか、これらは”青春を奪われていない人たち”には決してわかり得ない。もっと言うと、本人すら自覚していないところで悪影響があったとしても不思議ではない。


ではコロナのことも含めて、外部環境によってぺろニキが誕生するに相成ったならば「何がクリティカルにその要因となっているのか」を考察しなければならない。



<なぜぺろニキは”ぺろニキ的行為”をするのか?>

ここでは本人たちの口から出る言葉よりも、より深層心理に近いところで考えてみたい。

なぜなら本人たちに「なぜ、みんなが使う湯呑をぺろぺろしたのか」「なぜ、線路の上を走って電車の運行の邪魔をしたのか」と尋ねても、きっと「面白いと思ったから」「バズると思ったから」といった答えが返ってくるだろうからである。

これに対して「意味が分からん。全然面白くないよ。何で湯呑ぺろが面白いの?」というふうに深堀りしていくのは野暮であって、「なぜあなたは星を見て綺麗だと思うのですか?」という西洋の絵本に出てきそうな哲学的な世界に足を踏み入れることになる。要は感性の話になるわけだ。


としたとき、
彼らをペロ行為に駆り立てる根っこにあるものは一体何なのか。


それは「何者かでありたいという欲求」ではないだろうか。


これまでの人生で他人に誇れるような成功体験があったわけでもない。取り立てて勉強や運動ができたわけでもないし、ルックスが芸能人並みというわけでもない。類まれな才能も持ち合わせてはいなかった。そんな風に思っている人たちはごまんといる。


要するに「何者でもない」のである。


ここにコロナ禍での「社会との断絶」が加わった。

これまでは社会との繋がり、友人や恋人との繋がりによってなんとか自我を保つことができていた。というより「自分は何者なんだろう?」と考えなくても日々の日常を過ごすことができていた。

それがコロナによって繋がりが断たれ、ごまかしが効かなくなり、「あぁ、自分は何者でもないんだな。」と自覚する機会が生まれてしまった。

明確にこうした自問を経てなくても、心の奥底にじんわりと巣食って広がっていたはずである。

「自分は何者なんだろう?」という問いは、得てして「自分は何のために生きているんだろう?」という問いに派生する。

生きる意味を問い始め、そこに空虚さを感じたとき、人間は絶望する。

そこから逃れたい、何者かでありたい、と心が叫んでいる時に、
「SNSでバズる」という「他者との繋がりと他者からの承認を同時に満たすことのできる魅惑の果実」が目に入る。もう抗う余地はない。その後のことなんて知ったこっちゃない。今、このぺろ行為を通してとにかく何者かになりたい。


…こうして、各地で大量のぺろニキが誕生することとなったのではないか。



<ぺろニキを根絶するには>

そもそもだが、私は”性善説”で生きている。
性善説でなければ、教育業界で起業などしていない。

ごく一部の超例外を除いて、様々な経験や学びを通して、考え方や価値観・能力をアップデートすることで、自分という人間も人生も変えていけると信じている。

ぺろニキに限らず、他人の体や心を傷つけたり、他人に迷惑をかける行為はきれいさっぱりなくなって欲しいと思っていて、そのためには何ができるかを模索しているわけだが、

やはり「自己実現欲求の追求」は有力な解決策になりうる。

自分が人生で何を求めていて、どういう日々を過ごしていたいかを真剣に突き詰めて考えた結果、それを実現するための手段が「他人を傷つける」とか「迷惑を掛ける」「人の足を引っ張る」といった行為になることは99.9%あり得ない。

ただ問題なのは「自分にとっての自己実現の形とはどういうものだろう?」という問いをどうやって考えていけばいいかを学校で教わっていないことである。

考え方がわからないから、問いに対する答えが得られず、目先の欲求で誤った手段を選択してしまう。


もちろん、ぺろニキの行為に対しては「ふざけんな何やってんだバカ野郎」と憤りを覚えるわけだが、

自分はもしかしたら周りの人や環境に恵まれていただけで、運良くぺろニキにならずに済んだだけかもしれないと、これまでの幸運な境遇に感謝するとともに、

「自分が何者かわからない」「人生の目的を見失っている」という人たちの手助け、つまり「自己実現欲求を見つけ、追求していく」ためのベストな手段を提供できるように、一層精進しようと胸に誓う今日この頃である。

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