嘘ついてもいいんだよ
「これまでの人生で、自分は一度も嘘をついたことがない」
という人はいないでしょう。
本当に一度も全く嘘をついたことがない人がいたらアレですが、まぁそんな人いないでしょうし、それを主張すると逆に嘘つきのレッテル貼られるので現実には出会うことはありません。
誰しも嘘をついたことはあるし、しかもその回数や頻度も決して少なくないはず。
そういう意味だと、世の中に"嘘つき"ってごまんといるわけですね。
<自分は嘘つき?正直者?>
以前にも少し触れましたが、言葉ってものにはそれぞれ世の中で持たれてるイメージがあって、「嘘つき」という言葉はそれはそれはイメージが悪いです。嘘つきと対になるのが「正直者」ですね。こちらは頗るイメージが良い。
ただ実際のところ「自分は正直者である」と自信持って言える人は極めて珍しいでしょう。正直者を自認するには「思ってることは全部正直に言う」「一切合切何も包み隠さない」というスタンスで生きていることが条件みたいな感じがしますよね。これは相当肝が据わってないとというか、いい意味で頭のネジがどこか一本ぶっ飛んでないと厳しい。
自分は嘘つきか、それとも正直者か。
正直者側のハードルが高すぎることもあって、あえて中間を許さずこの二択でいくのであれば、ほとんどの人が「嘘つき側」にいくのだと思います。私も例に漏れずそちらに属します。
こうやってどちらかに分類しようとすると、先ほども言ったように「言葉のイメージ」があるので、みんな「できるなら正直者側に入りたい」という気持ちが生じるのではないでしょうか。「君って正直者だよね」と言われる方が「君って嘘つきだよね」と言われるより何倍も嬉しいはずです。
<嘘は本当に悪いのか?>
そもそも正直者と嘘つきにこれほどイメージの差があるのも、「正直は正義で、嘘は悪」という前提があるからだと思います。
けれど嘘って、本当にいついかなる場合も悪なのでしょうか?
例えば小さい子どもが一生懸命作った料理の味がイマイチだったときに、「すごくおいしいよ!」と言うことは悪なのでしょうか?
上司が嬉しそうに子どもの写真を見せながら「可愛いだろ?」と言ってきたときに、仮に心の中で思ったとて「いいえ、私はブサイクだと思います」と正直に言うのが本当に良いのでしょうか?
嘘も方便じゃないですが、カントの定言命法的に「いついかなる時も嘘はついてはならぬ」とするのではなく、中身を切り分けて考えることが重要なのではないかと思います。
<誰が為か>
一口に嘘といっても色んな形がありますが、その嘘が誰のためかというところで大きく二分されます。
①自分を守るための嘘
②相手を守るための嘘
嘘をつくとき、それが自分が何かしらの責任を逃れるためとか、相手を騙して自分を利するためとか、そういった「我が身可愛さ」につく①の嘘であれば、それは良くないです。これは言わずもがなですね。
ただ②に関しては、これは全然嘘ついていいと思います。
要は誠実さがあるかどうか、後ろめたくないか、この辺がポイントになってきます。
自分の為か相手の為か、客観的にグレーなものもあります。
これは個々人で基準が違うので明確な定義や線引きはできませんが、大事なのは自分自身に問いかけてみて、胸を張れるかどうかというところなんだと思います。
嘘を吐いたかどうかで判断するのではなく、嘘を吐いたことも含めて自分の生き様に誇りを持てるかに基準を置く。
そうして、いつもお天道様の下を気持ちよく胸張って歩ける人生でありたいものですね。
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