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路上觀察學の羊羹の部分
「路上觀察學入門」という本を友人から借りて半分ほど読んだ。
作者は赤瀬川原平 他。
赤瀬川自身は、不動産と一体化しつつ「無用の長物的物件」となった建築物の一部を、当時ジャイアンツにいた外国人になぞらえて「トマソン」と名付け収集したことで知られる。
「トマソン」と名付けた理由として、赤瀬川本人は、トマソンについて、
「打席に立ってビュンビュンと空振りをつづけながら、いつまでもいつまでも三振を積み重ねている。
そこにはちゃんとしたボディがありながら、世の中の役に立つ機能というものがない。
それをジャイアンツではちゃんと金をかけてテイネイに保存している。
素晴らしいことです。
いや皮肉ではない。
真面目な話、これはもう生きた超芸術というほかに解釈のしようがないではありませんか。」
と述べている。
そのような赤瀬川やその同輩の方々は本書においては、「路上観察学入門」という、総論めいた物について語っている。
「路上観察」の例として、本書では茶碗の欠け方、ホテルの階段の左回り・右回り、タバコの吸い殻の特徴などに着目した者がいたことが挙げられていた。
当書を二章過ぎくらいまで読み進める内に、ふと、我々にとっては、「部分ツイート」こそが路上観察の主題・手段なのではないかと思い当たった。
一つの例を挙げると、非常に優れた部分ツイートとして、「二時間飲み放題の菅野美穂の部分」というのが挙げられる。
この「部分」を見ると、なんと構成点が高いんだろうと僕は自然に感銘を受ける。
この感銘の理由とは何だろうか。
その要因として、「人の作為(と思われるようなもの)のなさ」こそが非常に重要な意味を持っているのでは無いかと考える。
まずもって、誰かが二時間飲み放題と看板やメニューに記した時、当然菅野美穂を登場させようなんて気はさらさら無いに決まっている。
そして、この7文字の列の中に菅野美穂を見出した人も、同様に作為が無いように(もしくはまるで作為が無いように)我々受け手は感じたのだ。
もしこの部分を最初に見つけた人が、菅野美穂を見出すに飽き足らず、三時間飲み放題を血眼になって探して、「三時間飲み放題の、賛辞:菅野美穂の部分」としていたならば、きっと我々はそこに、三時間飲み放題を街で探し(あるいは勝手に作り)部分を「作り上げた」作者の姿を見ただろう。
もしそのようになってしまっていたら、蛇足の「賛辞」は勿論、肝心の「菅野美穂」の部分までもに作為を感じ、その発見の価値は大きく毀損されていただろう。
当路上観察学の難しさの要素として「『ため波』『うけ波』に呑み込まれない」ということが本書では挙げられている。
「ため波」とはすなわち観察した物を体系づけた上で何かに役立てようと企てること、「うけ波」とはすなわち誰かに“ウケる”のを企てることである。
この波に飲まれない難しさ・大切さは「部分」を探す際でも通底することは、先ほどの菅野美穂の例を挙げるに明らかである。
我々は部分を見つけ、部分ツイートにするに当たって、決して要素から逆算をして、街を探し回るようなことはしてはならないのだ。
街で見つけた偶然の「部分」をそのまま拾い上げることこそが、このような部分ツイート群の一番の醍醐味であり面白さなのではなかろうか。
彼らが、アトリエや研究室から街に出て、何だか少しおかしい看板を写真に収めたように、部分ツイートを考える者たちは街の中・市井の中から部分をめざとく切り抜かなければならない。
街に出て、部分を探そう。