『嫌い』を見つめる
節分が近づいてきたので、
関連する絵本を子供と読みました。
そのタイトルは
『おにはうち ふくはそと』
節分の日、豆を撒かれ追い出され、散々な目に遭っている赤鬼と青鬼がいました。
ある貧しい夫婦が住んでいる家からは、
豆を買う金もなく、とはいえ節分なので掛け声だけでもと夫が
『おにはうち ふくはそと』
と誤って叫んでしまいます。
それを聴いた2人の鬼は、自らを向かい入れる奇特な家もあるものだと思って、その家へと入ります。
鬼たちはもてなせとご飯を催促しますが、貧しい夫婦にはもてなすもなにも食べるものは何もありませんでした。
すると鬼が自らのふんどしを差し出して「これと米を替えてこい」と命じます。
ここで手で隠しているが全裸になっている鬼がユーモラスです。
ふんどしは使用していたものとはいえ、虎の皮で出来ており貴重です。
ですから一升のお米と交換して来て、鬼たちにご飯を食べさせることができました。
米も尽きたので、さらにもう1人の鬼が、自らのふんどしを差し出し、また米と交換するよう命じました。
すると今度は沢山の米俵と交換することができました。
米ばかりではと思ったおかみさんは、米を売って酒や魚を買ってきて、ご馳走を鬼たちに振る舞いました。
やがて節分が終わり、周囲が豆を撒くこともなく穏やかになると鬼たちは帰ると言いました。
すると情が湧いた夫婦は、まだ米も余っているしずっといてほしいと引き止めます。
鬼たちは余った米を金に変えて、それを元手に一生懸命働くよう言い残し、帰って行きました。
ここで鬼は素敵な言葉を伝えます。
福の神でも全ての人々を幸せには出来まい。
でも鬼も1つの家族を幸せにすることくらいは出来る。
といったニュアンスのメッセージを夫婦へと残します。
そして鬼に言われた通り米を金に変えて、それを元手に懸命に働いた夫婦は、村1番のお金持ちになったというお話です。
皆が嫌う対象を捉え直すと
嫌う対象ではなかった。
なんなら好きにすらなった。
これは我々の日常の生活にも通ずるような気がします。
不平を述べたくなる対象は私にとって本当に嫌いなものなのか?
そうやって見つめ直すと新たな視点から解釈できるようになるかもしれません。
おしまい