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休日の雨とそれに伴う僕の感情

ぽつり、ぽつり、部屋の窓が濡れてゆく。

雨だ。

昔から何故か、雨に心を動かされるクセがある。
こうして、もう何日も書いていなかったnoteを更新しようと思ったきっかけも雨のおかげだ。

別に雨が好きなわけではない。
もっと言うと嫌いだ。
多くの人が感じているように、「天気が悪い」というだけで気分は下がるし、濡れるし、洗濯物は乾かないし、髪の毛は湿気を含んでまとまらない。

ー私の知り合いに、雨が降っている状態あるいは晴れていないことを「天気が悪い」と表現することに疑問を持つ人がいた。
確かに、「晴れを待っている」という前提があるため、そうでないことを「悪い」としているが、雨の降らない地域や、農作の過程において降雨量が少ないと、雨は必要不可欠な現象であることは間違いない。
自分が置かれていない状況の物事を、広く受け入れられるその人の考え方に深く感銘を受けたことを今でも覚えているー

雨に心を動かされる理由は、残念ながら二十余年の短い人生では見つけられていないが、とかく、私の心を動かしてくるのである。

ザー、ザー、ついさっきまでか弱く景色を濡らしていただけの雨が、激しく音を立てるように落ちる。
鳥がいなくなり、線路を軋ませる電車の走行音でさえも遠のいてゆく。
街はいつの間にか傘で埋め尽くされ、人はしかめ面になっている。

この時、私は部屋の窓を少し開ける。
より鮮明に水が地面を鳴らす音が聞こえ、小さな雨粒は風に乗り窓から侵入してくる。屋根の下でだけ感じることのできる「小雨」を楽しむのだ。もちろん、すぐに閉めるのだが。

振り返ると私は、雨の日に撮った写真が多い。
雨の中でしか取れない写真、雨の中でしかできない表現がいくつも瞬間的に湧いてくる。
この写真もその一つだ。

雨の日はうつむきがち


擬音では表現できないほどの土砂降り。
よく使われる比喩で言えば「バケツをひっくり返したよう」だろうか。
直接的な表現であるが、そのわかりやすさ故にオシャレささえも感じる。
いやそもそも「土砂」が「降っているような」で「土砂降り」とは、言葉として確立された、とんでもない隠喩だ。
日本語はどこまでも面白く美しい。

しかし一方で、日本語を勉強している外国人の中には、この単語がとても卑猥に聞こえる人もいるようだ。
それは、「しゃぶる」という言葉をそういう意味で覚え、「ど」を「ド級」や「ど根性」のように程度を表すものとして覚えてしまった人だ。
彼の中では「DOSHABURI」が「ドしゃぶり」と変換され、頭が混乱したそうだ。

雨の後は静かだ。
鳥が戻り、電車も近づいた。人の話し声や足音、様々な音が街に戻ってくる。
もう少し雨音に気を取られていたかったが、こればかりは僕が決められることではないので仕方がない。

さぁ、そろそろ夜ご飯の支度を始めよう。
好きなロックバンドの、とびきり激しい曲をかけながら。

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