【短編】タバコと雨
「今までありがとう」
少し前、そう置き手紙を残して、彼女が部屋を出て行った。
釈然としないわだかまりを常に抱えながら、今日も電車は、仕事終わりの私を運ぶ。
駅から出ると、風が雨のにおいを運んできた。
もうすぐ降るな、そう感じた。
夜の暗がりに押しつぶされて、窮屈そうにうなだれる街灯。
風が吹くたびに身を寄せ合い音を立てる樹々の葉。
ポケットに突っ込んだ手を、少しだけ強く握りなおし、家路を急ぐ。
もう、夜風が冷たい。
もう少しだけ待ってくれれば良いのに、街にのしかかった鈍色の空からは、ぽつり、ぽつりと追い討ちをかけるように雨が落ちてきて、たちまち、アスファルトの色と空気の匂いまで変えてしまう。
やっぱりきた。
こんなくだらないことには前もって気付けるのに。
大通りから少し外れたこんな裏通りにも、雨は平等に打ち付けてくるものだなと、感心さえ覚える。
古びたタバコ屋の軒先で足を止め、荒げた息を整えながら、通り雨が過ぎるのを待つことにした。
こんな夜も悪くない。
濡れたスーツをハンカチで優しく撫でた後、それをジャケットの右ポケットにしまい、今度は左ポケットからタバコを取り出す。
強くなった雨のせいで、ライターを擦る音もかき消されてしまったが、一瞬、顔が橙色に染まる。
線になって落ちてくる雨とは逆方向に進んでいく煙を眺めながら、まだそれほど日も経っていないはずの過去のことを、できるだけゆっくりと思い出す。
ジリジリと燃え尽きるタバコと同じように、あの頃の記憶もいつかは忘れてしまうのだろう。
そんなことを考えていると、かじかんだ手からタバコが落ちた。
濡れた地面に触れた瞬間、少しだけ音を立てて火が消えた。
落としたことを忘れるかのように、すぐに二本目に火をつけ、今度は目を閉じる。過去というのは、どうにも目を閉じた方がよく見えるらしい。
タバコの煙に少しむせ、数回咳き込む。
昔、「咳をしてもひとり。」と詠んだ詩人がいるそうだ。
その瞬間、わずかではあるが、その真意が分かった気がした。
二本目を吸い終わり、雨が過ぎるのを待っているのがバカらしく思えてきた。
肺に残った煙を全て吐き出すように、大きく深呼吸を3回繰り返し、ゆっくりと軒先から外へ足を出す。
歩くのが遅かった誰かに合わせるように、いつもより丁寧に歩いてみる。
こんな夜も悪くない。
しかし、雨はさらに激しさを増すばかりだった。