声をかけてきた女性とその小さい背中
前提として、私は街で見知らぬ女性から話しかけられたことがない。いわゆるナンパ、逆ナンという文化に触れたことがない。
そんなイベントが一度でもあれば本望であるが、紛れもなく経験がないのだ。
これはそんな私が経験した、ある昼過ぎの出来事である。
昨日までの晴天を押し退けるように薄くこぼされた鈍色の空は、その奥で煌々と輝く太陽の光を遮っていた。
現場での仕事が終わり、そこから駅に向かう途中のコンビニにタバコを吸うために立ち寄った。
広い駐車場の端に追いやられた灰皿は、まるでタバコについての現代世論である。
タバコに火をつける。
いや、少し前まではそうだったが私もその「現代世論」に感服しつつある身だ。
最近はせめてもと思い電子タバコに変えたため、「火をつける」と言うより「カートリッジを本体に差し込み熱する」と表現するのが、味気はないが正しいだろう。
駐車場の端で一人心悲しくタバコを吸っていると、視界の端の方から背の低い女性がこちらに向かってゆっくり歩いてくるのが分かった。
おそらく彼女も、目的地はこの世論に潰されかけている灰皿である。
当然、わざわざ彼女の方を向くことはせず、ただ近付いてくる彼女の姿を視界の端で捉えていた。
彼女はやはり灰皿の前で歩みを止め、そして紙のタバコを口に咥えた。
世論に抗うその姿にはわずかな端麗さがあり、冬の冷たい風がよく似合っていた。
ぼんやりとそんなことを考えていると、彼女は私の正面に立ち、強烈な視線を私に送っているのを感じた。
その居心地の悪さに負け視線を上げると、タバコを咥えたままの彼女が冷めた目つきで私を見ていた。
さらに居心地が悪くなった私は急いで目を逸らしたが、その瞬間、彼女が口を開いたことで虚無が引き裂かれた。
「お兄さん、ライター、ある?」
単語を並べるだけの話し方は、多少の棘はあるが、どこか安心感のある彼女が纏う風貌とのバランスが良く取れていた。
「すみません、最近電子タバコに変えたもので。ライター持ってないんです。」
「そう…」
一瞬悲しい目をした彼女は、そう言うと少しの沈黙の後でまた口を開いた。
「もう吸えるところも少なくなってるしね。私なんかが吸ってちゃいけないよ。」
気の利いた言葉も掛けられずに返答に困る私をよそに、彼女はさらに続けた。
「でもね。長生きしても良いことなんてないよ。早く死にたい。」
消え入るようなかすれた声でそう呟くと、私の返事を待たずにタバコを箱に戻し、足早に去ってしまった。
またしても一人になった私は、彼女が置いて行ったやり場のない感情越しに、ただ遠ざかるその背中を、ひたすらに見つめるしかなかった。
私がもしライターを持っていれば、どのような話が展開されたのだろうか。
さらに冷たくなった風に煽られ、タバコの煙が空へと散った。
70過ぎのおばあちゃんに話しかけられた、ある昼下がりの出来事。