人生の選択の大切さ
人には何度かルート分岐があると思う。
私の場合、13歳の頃に母親が蒸発し、父側に付くか母親に付くかで迷った時が一つ目のルート分岐だったのだと思う。
あの時は渦中に居たのであまり覚えていないし思い出したくないのだけど、心の中で「このままこの家(父方の家)にいたら私は母親の代わりになって何もかも(家事や掃除など)させられる」と思い着の身着のまま、最低限の衣類を持って母親のいない母方の婆ちゃんの家にチャリで行った。
婆ちゃんは涙声になりながら「よく来たなぁ」と言ってくれた。爺ちゃんは無言で、涙目になっていた。そこしか覚えてない。
その後、私は婆ちゃんの隣で寝て、婆ちゃんのご飯を食べて生活をした。母親からの連絡が来るのを2人で待っていた。
ある日の夜、母親から電話がかかってきた。「新たな地で働くためには住民票が必要で、住民票を移したいからそれを取ってきて欲しい。そしてこの住所に送って欲しい」と。その住所は遠く離れた北海道だった。私はその住所をメモし、婆ちゃんに伝え、婆ちゃんと母親の妹である叔母と北海道に向かった。そこもあまり覚えていないけど、雪まつりがやっていて、女性がビキニを着て看板か何かを掲げているのを見て「寒そうだな」と思った事は覚えている。(余談だけど、この事を思い出すから雪まつりは苦手になったし、叔母の子供も私と同年代だったので、従姉妹達には迷惑かけたなと今でも思っている。)
着いた先のアパートで私は中に入らず、婆ちゃんと叔母が母親と話をしていた。私がいたら大人たちの話の邪魔になってしまうし、母親が怒られている所を見たくなかったし、私が居ない方がスムーズに話が進むと思ったので外で待っていたのだと思う。これも何も覚えてない。ただただ覚えているのは、叔母が「お母さん、帰って来るって」と言ったことだけだった。ただ、一緒にではなく、2週間後に帰るとの事だった。
そこから2週間は本当に帰ってきてくれるのか、嘘じゃないのか、不安に過ごした事だけは覚えている。
2週間後、本当に母親は帰ってきた。心の底からホッとした。
次の分岐ルートは14歳になる少し前、約10年、付き合ったり別れたりを繰り返す事になる元彼と付き合った事で、私は当時、ストレスや元々の運動嫌いで63kgあったのだが、元彼が恥ずかしくないようにと夏休み中に食事制限、1人で婆ちゃんちの庭でひたすら(1時間近く)縄跳びをボクサー跳びして運動し、夏休み明けには45kgまで落とした。
その元彼はなかなかに酷い人だったけれど、そのお陰で中学でこそ太っていて自信がなかった私が、高校では人並みに楽しめた機会を与えてくれてのでそこは感謝している。
ただ、その元彼が高校卒業後に自衛隊に入り、数ヶ月で退職して、給料やボーナス、合わせて50万近くを私が専門を卒業した後、同棲するのに使う資金にしようと約束していたのにも関わらず、おっパブに全て注いで溶かしてしまい、それから後に、今でも悩まされている精神を病むきっかけを作った人物であり、それが原因で専門も中退した。なので、この選択肢は間違いだったのかもしれない。
そして、分岐ルートとして今のところ最後になるのは今の旦那と結婚した事だと思う。
上に書いた元彼とおっパブ事件の後に別れたがよりを戻し、同棲はしたが耐えきれなくなって同棲を解消。その時、私は薄らと「次に付き合う人と結婚するんだろうな」と考えていた。
そして、その当時は声優になりたいと思っていたので週に一度、塾的なノリでレッスンに通っていて、ニコ生なんかもやったりしていて毎週楽しく過ごしていた。今でもニコ生繋がりで数人とは繋がっている。
そして、派遣社員として携帯販売をしていたのだが、新たに派遣された場所に居たのが旦那だった。
旦那には当時彼女が居たが、度々愚痴を言っていた。曰く、結婚したい圧が凄いと。結婚はしたくないのにと。ただ、旦那の手相を見た時、結婚線では今年結婚すると出ていた。なので私は「いやーでも今年結婚するって出てますよ?多分そのまま結婚しちゃいますよ?」「嫌なら別れれば良いと思いますけどね。」等と言っていた。旦那は見たままオタクだった。そして私は身なりこそギャル寄りだったが、中身は声優を目指しているだけあってオタクだった。そして、旦那と私の共通点はカラオケが好きでボカロ曲が好きな事だった。なので、何人かとカラオケに行った時に私がボカロ曲を歌った時、「え!?ぱやちゃんその曲知ってるの!?」と凄くびっくりされた事を覚えている。
そしてカラオケに行ったり食事に行ったり、愚痴を聞いたりしていた関係が続いたある日、旦那から告白をされた。私は「いや、次に付き合う人と結婚するって決めてますし、彼女いますよね?そこハッキリして貰ってからそういう事言ってもらって良いですか?」と伝えた。
その後旦那は直ぐに彼女に別れると伝え、彼女は泣く泣くそれを了承していた。彼女に言えることはただ一つ。本当に申し訳無いことをしたと思っている。ごめんなさい。
そして、その少し前、私は他の男性数人から告白をされていた。正直、悩んでいた。と言うのも、私のこのネガティブさや性格を正しく理解してくれる人達では無かったから。みんながみんな、夢に向かって頑張って、そしていつも笑顔で接している私の事を好きになって告白をしてきてくれていたからで、根底にあるネガティブさを隠して生きていくのは私には到底無理だったからだ。
私は、カウンセリングの代わりに占いを利用する事がある。話を聞いて悩みを聞いて貰い占いの結果がテキトーでも何かしらの答えが出るので気持ちが少し楽になるからだ。
そこで占い師に言われたのは「23歳で結婚したら絶対に離婚する、この人たちの中だったら旦那が一番無理をしなくても良い相手だ」という事だった。当時私は22歳。数ヶ月で決めるか1年待つかを考えた時に、24歳で結婚するのは何となく嫌だった。本当に何となく。
なので私は旦那と付き合う事にした。そこから2ヶ月もしない内に旦那が「結婚しよう」と言ってきた。なので私は「じゃぁ23歳になる前に結婚したい。23歳で結婚したら確実に離婚するらしいし。」と伝え結婚式の話になった時も「自分が主役になるのは葬式だけで充分だ」と答え、4桁の安い指輪をペアリングで買い、新婚旅行はディズニーランド。それで充分だった。贅沢は望まない。望んだらキリがないから。
そして、誕生日の5日前に入籍をした。ギリギリ22歳。
その3ヶ月後に子供を授かり出産をし、上の子が1歳半の時に下の子を出産した。ただ、年子だけれど下の子が4月生まれなので2学年差である。
これも私の希望で、早いうちに子育てを片付けてしまいたかったのだ。
若い内なら無理が効く。そして、性別も違うので我が家はこれ以上子供は望まない。
そもそもが旦那がそういう行為が好きでは無いし、無理強いもしたくなかった。
そして今、上の子は10歳、下の子は9歳。今年結婚12年になるのだと思う。(毎年旦那に結婚記念日には何周年だっけ?と聞くレベルの人間なのでうろ覚えだけれど多分そう。)干支を一周する期間、旦那と一緒にいるのだと考えると、私は何だかんだこの分岐ルートをたどって正解だったのかもしれないと思える。
ただ、もしも母親が蒸発した時、父方の家に残っていたらと考える時は多々ある。弟と妹には本当に申し訳無いことをしたと思っているし、一生をかけて償っていこうと思っているので、実際、父方の爺さんが癌を患い婆さんも認知症だと診断された時、私は率先して約2年間、介護をし、爺さんを看取った。(この話はまた長くなるので気が向いた時に話そうと思う)
人生には分岐ルートが沢山あって、その中でも私は(最初こそ自分勝手な理由で楽なルートに進んだが、その経験から)少し苦労をしても、死ぬ間際にあの時ああしておけば良かったと思うような悔いがない人生を送ろうと思っている。そして、それは今の所ほぼ達成しているし、今後、また分岐ルートが現れた時にもそうするつもりで生きている。
だって、私の人生だもん。私が死ぬ間際に後悔したくないもん。
最後に皆様へ。
つらつらとつまらない文章を読んでくださってありがとうございます。皆様の人生が素晴らしいものでありますように。