12年前の長男出産の思い出

10月22日は息子の誕生日だ。12年前に爆誕し、すくすくと大きくなっている。カービィガチ勢であり、私と2つ年の離れた妹(娘)と映画やドラマ、アニメを観たり、YouTubeを観たりするのが大好きで、とても穏やかで時に「怠惰」を体現しているかのような姿を見せる彼が産まれた日の事を、毎年のようにツイート(今はポストって言うんだよね)しているのでここでちょっとnoteにでもまとめてみるかと思い、子供たちの塾が終わるのを車で待機しているこのタイミングで綴ろうと思う。

おしるしがきた!!!

22日の朝6時頃、少しのお腹の違和感で目が覚めてトイレに行った。嘘かも。普通におション(我が家では小の事をこう読んでいる。ちなみに私一人だけ。)したかっただけかもしれない。とにかくトイレに行きいつものようにトイぺをくしゃくしゃにして拭き、トイペの色を確認した。
いつもは着いていないほのかに赤いブツ。そう。おしるしがきた。
おしるしが来る遥かに前から、私はとうに腹を括っていた。と言うのも、妊娠中にバセドウ病を発症し、即入院。2週間の絶対安静を言い渡され、うんこは命懸けという経験をしたのだ。死線をくぐったと言っても過言ではないだろう。うんこをするのも命懸け…情けなさすぎる。トータル1ヶ月のバセドウ病の入院生活、色々な事があった。目の前のおばあちゃんが勝手に下剤を飲みまくり、ベッドの脇におまるを用意され、朝ごはん、お昼ご飯関係なくカーテン越しに聞こえる排泄音と香りを我慢したり、同室の糖尿病のおばあちゃんが夕飯に出されたブヨブヨの素麺に激怒し、夜中に低血糖の発作を起こしたり…この経験で私は悟った「なるようにしかならない」と。
腹を括った人間は強いのだ。よどみなく、迷いなく「産むしかねぇ。何があっても。」と先を見据えていた。
いざ、旦那に報告である。
寝ている旦那を起こし「おしるしがきた。多分今日産まれる。」と伝えると、旦那は「今日はお店の引越しがあるから絶対休めないんだよね。」と言い放った。
当時、旦那は中古パソコンショップの雇われ店長をしており、業績が伸びたので少し広い場所に移転する事になっていたし、元々それは聞いていた。旦那の立場もわかる…わかるしそこは仕方がない。仕事だから。ただ、私だって腹を括っていると言っても一人はつまらない。そんな葛藤を抱きつつ、旦那も私も、8時を過ぎないとどうせ身動きが取れないので一旦ここは寝る事にした。
が、どうにもおしるしが来たという興奮と地味な腹の痛さで眠れないので、どうせ入院したらお風呂に入れないしという事でシャワーを浴びる事にした。
シャワーを浴びている間もやんわり出血があるのを見て「久しぶりに股から血が出るのを見たな」等と思ったのを覚えている。

8時だ!病院に電話をするぞ!

そうしている間にもゆっくりと時は過ぎ、そろそろ電話してみるかと病院に電話をかけた。看護師に「じゃぁ10時過ぎくらいにお産セット持って病院来てねー」と言われたのでまた待機。また待たなければならないのか…と軽くゲンナリしつつ、母やその他の親族、友達にも連絡をしたりして予約の時間になるまで待機していた。
旦那はと言うと、偉い人に電話をかけてとりあえず病院までは一緒に来てくれることになった。手続きとかあるしね。

待ちに待った病院だ!内診だ!

病院に着き、とりあえず子宮口の開き具合を見る為に内診をされた。これがまた痛いのなんの。というか、特別痛い人が担当だったようで、こちらが「イタタタ」と言っても「まだ1cmしか開いてないのでまだまだですー」と軽く言ってくる。(何故特別痛い人だとわかったかと言うとこの人の後に内診してきた人は物凄くソフトタッチだった。)
この後、この人が帰る17時まで定期的にこの助産師に私は内診をされ、陣痛が来ている時に子宮口の開き具合を確認された時はあまりの痛さに冷や汗が出たレベルだった。そして毎度血みどろの指を見せながら「今〇cmなのでまだまだです」と言われる拷問プレイを受け、その度にこの痛みを私は何度やられればいいのだろうと鬱になるのだった。

入院だ!昼飯だ!

そんなこんなで私が拷問を受けている間に旦那が入院手続きを済ませ、実母が病院に到着した。
実母は旦那にめちゃくちゃキレていた。「一生に一度の事なのに仕事を優先させるなんて!」と。私もそりゃキレていたけれど、正直それどころでは無い上に、誰かしらいてくれればそれで良かったので、母に相づちを打つ程度で終わらせた。
病室で横になっていると配膳員さんがご飯を持ってきてくれた。
何が出たかは忘れたけれど、バセドウ病で入院中に味わった懐かしい味(とても薄味で美味しくない。むしろ、マズイ)のお昼ご飯だったのは覚えている。
腹が減っては戦ができぬと言う言葉通り、何度か陣痛が来て固まりながらも昼ごはんを完食し、何なら足りないレベルの量なので、散歩がてら売店に行き、おにぎりを2つ買って食った。
売店に行く途中、2度ほど陣痛が起き、その度に立ち止まりフーフーとする様を見た母親が爆笑していた。痛いながらも私も爆笑していた。2人して「食い意地張りすぎだろ」と言い合っていたし、通行人は立ち止まり爆笑している母娘をギョッとしながら見ていたが、即座に理解するようでただ見るだけだった。

どんどん早まる陣痛!

さて、昼ごはんも食べ、満腹の妊婦。陣痛が来た時以外はとても元気なので暇である。
そしてひょっこりと顔を出す助産師、顔が曇る私。内診台にまたがるが、この病院、当時は大学病院のクセに設備はカスだったので内診台には自分で上がらなければならないのである。普通電動でブイーンとかあるんじゃないのかよ!!!前の人の出血が丸見えだよ!拷問台かよ!!!と数回ほどキレそうになった。
更に内診と陣痛がブッキングするともう最悪で、片足を引っ掛けて登る途中に陣痛が来た時は何かしらのトレーニングをしている気分になった。
そんなこんなで内診台に登り切り、また拷問のような子宮口の確認をされる。
この子宮口の確認、経験の無い人にド直球でお伝えすると、股の奥の奥に中指を突っ込むのだ。もっと言うと子宮の入口に指を突っ込み、周りをなぞるようにOを描くように一周させる。指だけで子宮口がどれだけ開いているかを測るのである。そして、このゴッドハンドによって子宮が一気に刺激され、一気にお産が進むのである。助産師 have god fingerである。そしてこの子宮口の確認、痛ければ痛いほどお産が進むのだ。
先程言ったように私の担当だった助産師は冷や汗をかくほど痛い内診をする人だったので尚更お産が進む進む。内診の度に陣痛がどんどん重くなってくる。
助産師の指から「今日のなるべく早い時間に産ませてやる」という強い意志を感じるレベルであった。
その拷問のおかげもあり、あれよあれよという間に陣痛室に入り7時間程で7cm子宮口が開いたようである。逆に言うと、拷問タイムにむちゃくちゃ陣痛は進むが、さすが初産。まるで進まない。
進まなすぎて陣痛室に置いてある木馬のようなものが目に付いた。(ご丁寧に座るところはO字の便座のようになっていた。)
母と「これに跨ったら瞬く間に陣痛が進むのかもしれない…」
「でなければこの現代の医療の場にこんな原始的なものが置いてあるはずがない…」等と話をしていた。
「ちょっと跨って揺れてみようか。モノは試しだ」と木馬に跨り揺れている所に助産師さんがやって来たので「これ…やって意味があるんですか…?」と恐る恐る聞いた。心のどこかで「実はこれめちゃくちゃ陣痛進むんですよ」と言って欲しかったのだが、その願いも虚しく「あぁ…これですか?ただ揺れると気が紛れるだけの気休めですね。」と言われ即降りた。この木馬のようなものが気休めオブジェに成り下がった瞬間である。そんな物ただの置物に過ぎない。頼れるのはゴッドフィンガーと己のみ。陣痛はというと5分間隔まで短くなっていたが小腹が空いてきたので気晴らしと陣痛促進がてら再び売店まで足を伸ばすことにした。
この妊婦、陣痛の時までも食ってばかりである。
エレベーターに行く途中で1回、エレベーターに乗っている間1回、エレベーターホールから売店まで2回と4回程陣痛が来たが、その間立ち止まりフーフーしつつ売店に着き、売店にで品物を選ぶ間にも1度陣痛が来たが、見事に菓子パンをゲットした。さて戻る。戻るぞ。
先程も言ったが、大学病院なのでやたらに広い。横にも縦にもでかい病院をこの時ほど恨んだ事はない。
確か帰りは5回ほど陣痛が来たと思う。通常であれば往復15分程で終わるのに、いつ来るかわからない陣痛と、陣痛が来たら痛みを逃すのに立ち止まるので通常よりマシマシでベッドに着いた。
そして食う。バセドウ病をナメるな。食っても食っても食えるので、帰ってきた15分後にはもう夕飯の時間だというのに菓子パンを完食した。なぜならば、いつ終わるかもわからない戦いなので食える時に食っておけという母の助言と、今日という日まで体重をとても気にして食べられなかった反動で、まるで計測日当日のボクサーのような達成感があったのだ。

夕飯だ!やったね!

菓子パンを食い、陣痛をやり過ごし、木馬のオブジェを後目に母と談笑したり、時にはケツを押してもらったりして、やっと夕飯の時間になった。
陣痛は3分間隔くらいになっていたと思う。
こんな時でも腹は減るし、目の前の大先輩は「食える時に食っておけ」と促すので、3回ほど陣痛で止まるも無事に美味しくない夕飯を完食した。何なら母が買ってきていた母用の夕飯のパンも貰っている。
看護師や助産師は私に食う余裕があると思っているようで、まだ出産まで遠いわねなんて言っている。
その言葉を信じ、こんなもんだろうと思っていた。

ここから出産までフルスロットル

自体が急変したのは夕飯後、子宮口を調べて貰った時だった。
「あれ?もう9cm?」
いつの間にか交代した助産師がこう言った。夕飯前までは7cmだった子宮口が夕飯後には割と開いていた。多分違う。前の助産師が低く見積っていたのだと思う。
だってめちゃくちゃ痛いもん。NSTもさっきとあんまり変わってないもん。嘘じゃないもん。
そう思っていると、ある看護師がやって来た。ここからが私の出産のピークである。
看護師から出た言葉は「点滴を入れさせろ」だった。
この看護師、どこかで見覚えがあるぞと思った。そういえば前々日に、産んだらなかなか来れなくなるからと旦那と焼肉屋に行った時に物凄くうるさかった女だったのだ。曰く「患者マジでめんどい」「先輩ウザいし後輩は使えない」と男2人位をはべらせたビッグマウスな女だった。
場所柄、大学病院の看護師だろうと察しはついていたが、まさか産婦人科の看護師だとは思わなかった。
陣痛の間隔1分の妊婦×ビッグマウス看護師!レディファイ!!!

……

勝った……いや、負けた…。ビッグマウス看護師が私の腕に針を刺す度に陣痛が来てそれを逃そうと身体を強ばらせてしまうので上手く針が入らないようだ。
1度、パワープレイで血管にブチ入れるも、パワープレイ故に上手く入っておらず腕がパンパンに腫れてしまった。この看護師、ビッグマウスな割に慣れていないようである。
この戦いに3度ほど勝ち抜き、最終的に看護師が「先生呼んで!」と半ばキレ気味に言っていた。私の点滴ごときで産科の先生は来てくれなかったが、先生(研修医)は来てくれた。
さすが先生と言っていいのか、それともあの看護師が下手だったのかはわからないが、私の陣痛の間隔をちゃんと読んで点滴を入れてくれたので、無事に1度で入った。
多分この陣痛1分間隔というバカなタイミングで点滴を入れることになったのは、私が売店まで行っていたからだと思う。

そして、助産師が息を止めるな!吸え!としきりに言ってくるので無事に過呼吸になりかけた。息を吐かせろ。吐かなきゃ吸えないんだ。
そしてこのタイミングで母が昨日テレビで観たという赤い金魚と黒い金魚を使うマジシャンの話をし始めた。身振り手振り、右に手をやるとあーかい金魚とくーろい金魚がこっちへそっちへと話をし始めた。なんというシュールなこの光景。娘がじんつ陣痛で苦しんでいる中で母は金魚の話をし続け、あまりにもそれが面白くて過呼吸が加速した。

子宮口全開!出します!

無事に点滴を入れた私は準備万端!何なら、もういつでも出せる状態だった。
ただ、懸念がひとつ。それはまだ陣痛室のベッドの上だと言うことだけだった。もはやここまで来るとNST(赤ちゃんの心拍を測る機械)はつけたまま、子宮口の確認もベッドの上で行われていた。早く私を分娩台に乗せて欲しい。楽にしてくれ。そう思っていた矢先、助産師が無茶苦茶な事を言い始めた。「子宮口全開だから、1回いきむ練習しようか?」思わず「今いきんだら出ちゃいますし破水させちゃいますけど良いですか?」と聞いた。すると「いいよいいよ!出せるならね!」と言ってきた。ならばよろしいと1度軽くいきんだ。すると助産師が「まだまだだよ!」と言ってきた。さすが手練なだけある。見抜かれている。エスパー助産師が「手を抜くな、全力でやれ」と言うのでそれに従い9割の力でいきんだ。もうどうにでもなれ。なるようにしかならん。
1度フルスロットルで回転したエンジンを元に戻すのは同じくらいのブレーキを踏まないといけないはずだ。そんなの賢い助産師さんなら知ってるよね?ね?
信じた私がバカだった。助産師は「はい!良いいきみだったよ!じゃぁ分娩室に行くからいきむのやめてね!」と言い出した。
そんなバカな…ここから元に戻すなんて無理!1回出しかけたうんこを止めたまま歩くとかできないでしょ!?何考えてるの!?と、言えるはずもなく、私は「あ…はいぃ…」と力なく返事をし、ビッグウェーブを耐えるしかなかった。
もはや早く出したくて仕方がない。例えるなら、10ヶ月間ずっと便秘だったブツがやっと出せるレベルのビッグウェーブなのだ。
「車椅子とベッドでこのままとどっちがいい?車椅子乗れる?」と聞かれ「あっ、車椅子無理です…このままお願いします」と冷静に答えるが、心の中では出ちゃう出ちゃう!無理無理!出ちゃうから!しか言えていない。
だがしかし、先程も言ったがさすが大学病院、めちゃくちゃ広いのだ。陣痛室から分娩室までリアルに5分は余裕でかかる。意味がわからない。もはや出したい以外にないし、しかし今出したら色々めんどくさいのはわかるしでいっぱいいっぱいであった。

やっと乗れた分娩台!

やっとの思いで分娩室に入れた。何よりも長い時間だった。薄暗い病棟でベッドに乗せられて唸りながら運ばれている私は、見る人が見たら重篤な患者だったと思う。
ベッドから30cm向こうは分娩台だ。
助産師に「一瞬降りて分娩室に乗って」と言われたが到底無理だ。絶え間なく襲ってくる陣痛(もはや便意と紙一重)で身体を起こす余裕が無い。絞り出すように「分娩台の横にベッドをつけてくれたら…寝返りで移動するので…」と言った。
要望通り、横付けして貰えた。陣痛が落ち着いた瞬間に今だとばかりに寝返りで移動した。そして、ここで初めて電動でブイーンと足が持ち上がるタイプの分娩台が登場した。
だがしかし、私の体が硬いのか、それとも処置しやすいからなのかどうにもこうにも足が開きすぎて股関節が痛い。あと10°で良いから内角にして欲しい。そう思いつつ、壁際で何か用意している助産師に高らかに宣言した「次の陣痛が来たら破水させまぁす!!!」多分お産の神が降りて来たのだと思う。
そんな事を知ってか知らずか助産師は「あーはいはいどうぞどうぞー」と軽く返事をしていた。
「おっ、やってやろうじゃねぇか!!!」と間もなく来る陣痛を待ち、その時はすぐに来た。
「破水させまぁす!(水)」の宣言と共に破水をさせると、水の音を察知した助産師が焦ってこちらにやって来た。私は心の中でガッツポーズをした。産まれそうだからじゃない。宣言通りに破水をさせられた達成感からである。
助産師は「先生まだ来れないよー」と言っていた気がするが、こちらはもう10分前から出せる状態だったのだ。先生が来れない?来させろ!!!そんな気分だった。
そこからはまた順調で「次のいきみで頭出しまぁす!」と宣言した。
先生がバタバタと駆けつけ会陰を切開しはじめた。
会陰切開よりもその前に打たれた麻酔の方が痛かったし、「頭出かかってるのに麻酔打って間違って頭に麻酔の針刺さらないかな」と心配になった。
そうこうしている内に助産師が「会陰のあたりを触ってみろ」と言うので触ってみたら本来であれば触ったら感覚があるはずの「毛」にまったく感覚がなく、私の体内から全く別物が出てきているのがわかって不思議な感覚だった。
破水させます宣言から神が憑依している私はノリに乗って3いきみ(3踏ん張り)で息子を出産した。

こうして2011年10月22日20時31分、2790gで息子が爆誕したのである。
息子を出した後、まだ何かいる感じがし、踏ん張ると胎盤が出てきた。
コイツが私の人生の中で指折りのスッキリ感だった。息子を出し切るよりも胎盤を出し切った方がスッキリした。10ヶ月間我慢に我慢をしたうんこを出し切った感覚だった。
私の子宮内の全てを出し切り、先陣を切って出てきた息子は健康状態をチェックされ身体を拭かれ私の胸元にやって来た。私の出産は終わったのだ。もう後は先生におまかせである。
何を任せるか。
切った会陰を縫合されるのだ。

縫われている

まぁそこまで大きく切れていないし、言うて4針位だと思うのだけど、この縫合が3日後辺りまで私を苦しめる事になる。
先程少し、薄く出てきた研修医!そう。この研修医に任せる事になったのだ。
これも未来の医学のため。これくらい犠牲になってやると思ったし、ベテランの先生も後ろにいてくれる。バックとしては充分すぎる位に信頼出来る…と、思っていた。(更に私は初産だ。股を縫われるのは初めての体験なのだ。)私も研修医もお互いに加減がわからない。初めての体験、お互い一緒だね!
そして何なら私は会陰切開の時に麻酔をかけられている。プツプツという感覚はあれどどうなっているかもわからない。
ベテランの先生は研修医に対して「そうそう!上手い!」と褒めている。大丈夫だと思っていたし、ベテラン先生も助産師も余裕綽々で私のいきみに対して「ここ最近で1番良いいきみでした!」「これなら次の子はスッポンだわ!」「ほんとにいきむの上手かったわ!初産とは思えない!」等と話をしている。身体の使い方が産まれた時からド下手くそで歌以外褒められた経験のない私は、この「感覚的なもの」を褒められ、何と答えたら良いかわからなかった。
何より、産まれたてホヤホヤで浮腫MAXな息子が胸元におり、朝起きてから今までの事を思い返し「2度と産みたくない」という気持ちと「こんなにふにゃふにゃなニンゲンを扱うのか」という気持ちが入り交じり、可愛いとか守らなければという気持ちが何も浮かんでいなかったので、この時点で母親失格なのではと軽く凹んでいた。

そんなこんながあり、母子共に健康だったので晴れて私と息子は病室に戻され、母や母の旦那、義母、義姉にお披露目される事となった。
お披露目されてから数十分後に旦那が仕事から戻り、余裕綽々な顔で「意外に早かったじゃん」と言った事は一生忘れない。仕事で立ち会えないのはわかるが、その一言は完全に余計だった。

会陰がとてつもなく痛い3日間と息子のNICU


本格的に会陰の縫合が牙を剥いたのは麻酔が切れ始めた深夜2時頃だった。
初めは、そら鼻からスイカが出たら誰でも痛いし仕方ないと思っていた。みんな痛いからO型クッションを使うんだと。
こんな事で弱音を吐いていたらこの先やっていけねぇぞと。
ただ、マジで痛いのだ。この状態で子宮口を確認?冗談じゃねぇ。こちとら立っても座っても寝転がっても痛ぇぞと。
更に出産した次の日、私がバセドウ病のせいで妊婦が使える最大量の薬を飲んでいた事により、その成分が胎盤を通して息子にも入っていたらしく、息子は新生児甲状腺機能低下症と診断され、NICU(厳密に言うとNICUの中に入っているGCU)に入院する事になった。
ただでさえ産後でメンタルがジェットコースターな事に加え、赤ちゃんの泣き声がそこら中から聞こえる環境で、先程まで抱いていた自分の子がそばに居ない辛さや悲しさは多分一生忘れないと思う。
息子に会いにNICUに行きたくても、会陰が痛すぎて歩けないのが更に私を追い詰めた。周りのお母さん達は余裕な顔で座ったり、添い乳をしたりしている。そういう風に見えてるだけかもしれないが、そう思った。私は母親失格なのだと更に思わされた。
3日後、会陰の消毒をして貰うのにやっとの思いで内診台に乗った時、先生に「あ、糸切るね」と言われた。「えっ、良いんですか先生。溶ける糸なんじゃ…」と言ったら「え、傷口も綺麗だし糸だから切れるよ」と返された。そらそうだ。糸は切れるわ。溶ける糸だと言うことに気を取られていたが、糸は切れるのだ。盲点オブ盲点。
切る時に少しチクッとしたが、切ってもらってあらびっくり。めちゃくちゃ快適だった。
QOL爆上がりとはまさにこの事。歩ける。しかもスタスタと。陣痛の時からはや4日。思い通りに歩けなかった今までが嘘のようだった。
つまるところ、縫合をキツめにされていて、動く度に糸が引きつっていて締め付けていただけだった。今なら言える。あれは新手の拷問だ。私が痛みに弱かったわけじゃないし、母親失格でもなかった。その瞬間から息子が退院するまで、私は暇さえあれば息子の所に入り浸った。
そして、今なら言える。息子がNICUに入ってくれたお陰で充分な休息もとれたし、NICUに入ったからこそ、色々な事を学ぶことができた。

すごいよNICU

NICUとは、新生児集中治療室の略である。
今でこそ色々なドラマで取り上げられたりするのだが、息子が赤ちゃんだった頃はNICU自体がなんのこっちゃ?な存在であった。
息子が入院していたNICUは地域(もしかしたら県内かも)の中でも最大病床数を誇り、院内だけではなく、近隣の産科で何かあった時の受け入れも行っていた。
NICUは新生児集中治療室と言う名の通り、新生児の集中治療室だけれど、中には大きい子もいた。大きい子は小児集中治療室に移されるのではと思っていたのだけれど、そうではなく、一度でも退院すると小児科の扱いになるらしい。

私だけが無事に退院し、息子のために母乳を運ぶ約1ヶ月のNICUお見舞い期が始まった。どれだけ出産の時に女神が憑依しようとも、スッポンと産もうとも、現代医療には逆らえない。
先程も言ったが、このNICUでの体験があり色々学んだからこそ、息子や娘が小さい頃に「死なない死なせない」という最小目標を日々掲げながら育児に励めたのだと思う。人間は生きていれば、死ななければ万々歳なのだ。

1人、印象に残っている子がいる。
NICUは両親以外は入れない特別な場所だ。NICUに入る前に手を洗い、手の消毒をし、使い捨てのガウンを着て、頭に不織布のキャップを被り、マスクをして入らなければならない。
その出入口の1番近くにいた子で、とても小さく、息をしているのもやっとな子だった。なぜわかるかと言うと、小さすぎて入る服もなく、特別仕様のオムツのみをつけられ、管が沢山入っていたからだ。
そして、私が帰ろうとした時に看護師と両親の会話を偶然聞いてしまったからでもある。曰く、女の子だから2週間生きてくれている。男の子だったら3日で亡くなっていただろうと。だから、この子が一日でも長く生きられるように母乳をお願いしますと。
翌日、息子の母乳を搾乳室で搾乳していると、その子のお母さんもやって来たので話をした。
「不妊治療をしてできたあの子は、私をお母さんにしてくれたから」と涙ながらに語っていたお母さんの事を忘れないと思う。
ただ、同時に人間のエゴについても考えてしまった。不妊治療をし、出生前診断で先天的に障害がある事がわかり、無事に産まれてきたとしても1歳まで生きられないとわかって出産する事は、両親の気持ちも理解できる。ただ、「ご両親を親にするためだけに産まれてきた子」の人生も理解できるが故にエゴだったのではと思えてしまった。

その子のスペースは程なくして無くなった。
その子のご両親が、今は前を向けている事を願っている。

ただ、中には病と闘いながらもNICUを卒業する子達もおり、NICUの医師や看護師は卒業する子がいると、夜にひっそりとではあるがお別れの挨拶をしに顔を見に来ていた。(母親が入院中のみ、NICUは24時間お見舞い可能なので私は自分のご飯の時と眠る時以外は入院中は息子の所にいたので、夜のNICUの様子も見られたのである)
看護師たちは卒業する子に王冠を被せ、手型を取り、写真を撮って、口々に「良かったねぇ」「明日お家に帰れるよ」「元気でね」「可愛がってもらうんだよ」「検診の時に会おうね」「お母さんとお父さんと仲良くね」と語りかけていた。看護師はNICUの子たちのお母さんとお父さんでもあるのだと思う。
無機質な部屋と機械音しかしないNICUではあるけれど、しっかりと愛を見た瞬間だった。

NICUに居る間に、息子はお友達がたくさん増えた。
息子がいたのはGCUだったので基本的には退院間近の多胎児の子が多かった。双子の男の子、双子の女の子、四つ子の男の子と女の子、未熟児で産まれた男の子。
覚えている限りでもこれだけの多胎児の子がGCUにいた。
当時、大学病院のくせにエアシューター(カルテや検査のオーダーの紙類をカプセルに入れ、空気の力でプシュッと送るもの)を未だに使っていて、配管をカプセルが通るガコガコという音がする度に新生児達はモロー反射をし、己の反射にびっくりした赤ちゃん達が泣くのである。
更にGCUの場所が一番配管に近かったので、何かが送られる度にモロった赤ちゃんが泣く惨劇が繰り広げられていた。なので、看護師もあの手この手である。
おしゃぶりや哺乳瓶の乳首を咥えさせられ、そもそもモロー反射をしないようにシーツに程よく巻き付けられている事もあった。
一昔前は泣くと肺が強くなるなんて言っていたけれど、泣くと酸素濃度が薄くなる子もいるので、小さい足に付けられたパルスオキシメーターが異常を知らせている子もいた。(その一昔前の真意は今も謎のままだけど。)
たくさんの赤ちゃんを限られた看護師さんで面倒を見なければならない環境のNICUはそれはそれは大変だと思う。マジで世の中の医療従事者さん達には感謝しかない。
更に言うと、一人一人、授乳、排泄全てを記録しなければならない上に日報も添えてくれていた。私なんて退院してから育児日記を書き始めて一歳まで書けなかったというのに…。

親よりもきっちりと、しっかりと守られていた息子が退院したのは産まれてから1ヶ月後の事だった。

NICUに居る間の1ヶ月間、そして退院してからの数ヶ月間、借り物のように扱っていた息子も今ではもうすっかりお兄さんになり、当たり前のように我が子である。
いつか息子が一人前になってくれるようにサポートしていくし、一人前になってくれないと大いに困るので、まだ私の保護下にある内に生活するのに必要な最低限のスキルは叩き込むつもりだ。



最後に

最後まで読んでくれてありがとうございます。
息子の出産の記録をぽちぽち書いてたら1万文字超えてる…こんな長文読む人いないわ…超大作すぎる…。
ただ、息子を産むのに関わった基本的な医療従事者の方々に感謝してる…(あの看護師はダメだけど…。)出産を経験した人達にドラマは絶対あるし、それは男女関係ないと思う。そしてこれは私のドラマの話。
娘の誕生日の頃に暇があったら娘の話も書かないとね…。

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