あえてダイレクトにメッセージを伝えない、という選択
先日、ある記事の作成を依頼して下さったお客様と話す機会があった。
その記事とは、彼が主催したイベントの紹介記事。
実は、彼自身も文章を書く方で。
彼の熱い想いを乗せた熱量のある文章は、読み手の心をグイと掴む魅力がある。
その文章を常々、素敵だな、と感じていた私は、そのイベントの記事も、本当はご本人の言葉で綴ったほうがよいのでは、という思いがどこかにあった。
その記事を書いたのは数ヶ月前のことなのだが、話の中で当時のことを振り返った彼は「記事作成を依頼して本当に良かった」という言葉と共に、こんなことを話してくれた。
主催側の立場で発信すると、想いが強くなりすぎて発信する内容が狭くなってしまう、というのだ。
主催者にはそのイベントに対する「アツイ」想いがある。
そのイベントを通じて参加者に伝えたい「確かなメッセージ」が、そこには存在するのだ。
だけどね、その想いをこちら側から発信することは、なんか違うなぁ、と思ってしまったんだよね。
真っ直ぐに視線を合わせ、少し困った様な表情を浮かべて、彼はこう言った。
彼がやりたいことは、「イベントそのもの」、「人々が集い体験を共有する場」をただひたすら提供することなのだ、と言う。
独特のタッチでステキな絵を描くアーティストでもある彼は、その行為は「作品を生み出す」感覚にも近いと話してくれた。
そのイベントに参加した人たちが、何をどのように感じ、持ち帰るかは彼らの自由なのだ。
そしてリアルな彼らの感じ方は、時に主催者の意図していた世界を大きく逸脱し、予想もしていなかった意外な展開を引き起こすこともある。
その観点に立つと、主催者側が「このイベントはこんな人たちのためにやっているんですよー。だからこんなことを感じて欲しいなー!」というメッセージを発信するのは、いらぬお世話なのではないか、と言うのだ。
この話を聞いた時に、なるほど、と目からウロコが落ちた。
例えば商品を買う際に「この商品、めっちゃいいんだよ!超役に立つから絶対おススメ!」というオーラが出過ぎると、逆に人は引いてしまう。
本当に欲しくなる商品とは、なぜか自然と目で情報を追いかけ、「それで、それから?…で、いくらあれば買えるの?」という様に、お客さん自らが能動的に動く不思議な空気感が存在する。
そして販売側が依頼せずとも、「口コミ」という名のノーコストかつ史上最強のプロモーションにより、どんどんと付加価値が加わり、広まっていく。
そんなことを感覚的に気づき、大切にする彼の考え方。
それ故に彼は、一つ一つは小さく、華やかではない「その場所」をコツコツと作ることにこだわり続けるのかもしれない。
そして、その場に参加した人たちが感じたことを自由に発信し、当初の主催者の想いを遥かに超えて、ゆるく、じわじわと広がっていく思想やライフスタイル。
なんてステキな展開の仕方なのだろうか。
この世界観は、私がライターの活動やカフェを通じて広げたいものにも近い。
理想論、上等。
彼の話を聞きながら、私もそんなステキな世界観を応援し、体現する一人でありたい、と切に感じた。