自分たちのことなのに
今日は都知事選の投票日
今までもさまざまな謀体を通して「選挙に行こう」と言われて来てるだろうけど、とくにここ最近はSNSなど20、30代の若い層が目にしやすい場でも有名人やインフルエンサーなどを通して選挙に行く大切さを訴えている気がする。
私も政治のことはまるでわからない。絶対小学校のころから義務教育でどういうことをしていて、こうやって選ばれて、こういう組織で、とか習っているけれど、恥ずかしいくらい全くわからない。それを20代前半は恥ずかしいとも思わず、むしろ知らないことを自慢していたような気さえする。
政治の仕組みや詳しいことなんていまでもよくわからないし、人にああだこうだ言える立場ではないけれど、詳しいことを知らなくても選挙には行けると思った。政治は勝手にどっかで知らない人たちが自分たちとは関係のないことをしてるわけではない。この人たちが国やその土地のルールや動きを決め、わたしたちがいかに生活しやすい環境を手にできるかはこの人たちが決めてるんだと思ったら、とっても他人事ではない。無茶苦茶に自分たちのことなのだ。
ずっと思ってた「どうせわたしが一票入れても入れなくても同じじゃん」と。たしかにわたしの一票で誰かが当選したり落選したりはしないだろうけど、選挙に行こうと思うことで、少なくともわたしの意識は変わる。それはわたしにとっては小さなことではないかもしれない。
先日「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」というドキュメンタリー映画を観た。わたしは三島由紀夫という人がどんな人で何をしてた人か知らない。全共闘とはなにかも全く知らない。50年目の真実?50年前に何があった?くらいの知識の乏しさなのに、以前予告で観た時から観ないと!となにかひっかかるものがあった。デートで選ぶものではなかったなぁとあとあと同伴者には申し訳なく思ったが、タイミング的にあのときしかなかったのだ。
わたしは右翼も左翼もよくわからない。よく街頭で叫んでるやつ?とかその程度の認識。無宗教だし、あまり信仰心というものがないんだと思う。だからなにが悪いとか何が良いとかそういうのはまったくないけれど、あの映画で感じることはすごく多かったし、良いも悪いも三島由紀夫のことをもっと知ってみたいと思った。あの時代日本だけでなく、なんで世界的にも政治の季節と呼ばれるような時代背景があったのだろう。いろいろ勉強してみようと思った。
映画に関する記事がネットには多くみられ、いくつかに目を通してみたが、その中でも映画にも登場する大学教授の内田さんがインタビューされてる記事が印書に残っている。
全共闘とは、武力闘争として行った学生運動を組織している各大学内の連合体で、東大全共闘とはその名の通り、東京大学の全学共同会議である。目的だったり運動方針はそれぞれだったりするけれど、少なくとも昔の若者たちはもっと貪欲でもっと政治に興味があって、もっと能動的だったんだと感じた。
近隣国である香港や台湾、韓国と比べると日本の学生は政治に自由であると思うし、発言ももちろん選挙にだっていける。しかし、まるで触れようとはしない。それを記事の中で内田さんは「非政治的」になっている、と述べている。
「政治的」にふるまうというのは、自分ひとりの言葉や行動が世の中を変えるかもしれないという、一種の「妄想」に取り憑かれることです。個人の生き方と国のあり方の間に相関があるという確信がなければ、人は政治的にふるまうことはできません。現代の日本の若者たちは、自分が何を言っても、何をしても、世の中はまったく変わらないという無力感に蝕まれている。これは事実ではありません。主観的な「思い込み」です。
気持ちはすごくわかる。自分が政治に興味があろうがなかろうがなにも変わらないと。けれど思った以上にそんなこともなんいだと最近わたしは思うけどな。自分の意識がかわると案外周りの意識もかわったりすると思うだよねぇ。
少なくともすぐに大きくことが変わることはないと思うけど、少しずつみんなの意識が変わっていくといいなぁと思ったりする。
久しぶりに朝からゆっくりした日曜日でした。
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