整形する前の方がかわいい
美容医療に対する偏見がまだまだ消えない今日この頃。
私は自身の顔面改造事情をSNSのみならず、実はリアルでも大っぴらにしてしまっている。というかフォロワーが増えすぎてカミングアウトしていない友人や知り合いにも強制カミングアウトする結果に至ってしまった。
もちろん腹はくくっている。だいぶくくりきっている。
ツイートがバズり、フォロワーが増え始めた頃はまだ、自分の顔には人の手が加えられたものであるという事実が世間に広まっていくことへの恐怖心が少なからずあった。
つい最近までインスタのリアルアカウントに鍵さえかけていなかったような一般人が大勢の不特定多数から認知され、ことさまざまな評価の対象になってしまうことですら怖いというのに、さらに私には整形というレッテル付き。
私という人間に対する意見のみならず、美容医療に関する多種多様な意見すらも受けることになってしまうのだ。
インターネットという荒野の中で、自分とは相反する意見の人間から無機質な、時に攻撃的なコメントが飛んでくるのだから怖いに決まっている。(じゃあなんでネットに顔なんか晒してんのって話はまた今度)
さあ、ここで大事なことを言っておこう。
私は自分の人間性に目標を持っている。それは、
「多種多様な価値観を理解はしなくとも、受け入れる姿勢は持つ」
ということである。
私は受容性の高い人間、許容範囲の広い人間でありたいと常々思う。
もちろん悪意のある意見や暴力的なことばを投げてくる人間にその考えを適用するつもりなどさらさらない。
ただ、単純に自分の価値観や考えと異なる人間を排除しようだとか攻撃しようだとか思わない。思いたくない。
かと言って全ての意見を理解しようと努めるのは酷だ。
かつては私も自分と相反する意見すら理解したいと思っていたしそれは可能だとも思っていたが、ここ最近でわかった。世の中には自分の想定範囲を超えてくる人間が大勢いて、完全理解など到底不可能であると。
普段私たちはまさしく井の中の蛙であり、自分を取り巻く人間関係からなる世界というのは非常に非常に、もうそれはそれは大変に狭いものだ。
Amazonが自分の趣味趣向に合わせた商品をカスタマイズしておすすめにピックアップしてくれるのと同じで、周りの人間というのは自分と似通った価値観を持つ人間が無意識に集まっているものなのである。
リアル、いわゆる日常を生きていればその狭い世界の中でだけ生きていられるのだから、ほとんど理解の範疇を超えた人間と接触する機会はない。きっと身近にそういう人間がいても無意識的に排除して身の回りに置かないようにすることができる。自然と不可視化できる。
だがインターネットは違う。
先回りしてブロックでもしておかない限り、理解の範疇を超えた人間からの意見を半ば強制的に目にしなくてはならない。
もちろん先行ブロックなどできるはずもないし、敵意はないのにただ反対意見だからといってシャットダウンしてしまうのも個人的に違う気がする。なぜなら反対意見から学ぶことはザラにあるということを友達を通して実感したためだ。似た者同士の友達とはいえ、時として意見が食い違うことはあって、そんな時互いの意見を交わし討論したことが私の思考の成長や受容性の向上に繋がっている。そういう機会になり得るのだから、反対意見を全部シャットダウンというのは少しもったいないような気がするのだ。
だからと言っていちいち相反する意見への理解に努めようとすればそれこそ自分のほうが玉砕してしまう。
ここで私がモットーとしている、「理解せず受け入れる」が出てくる。
この言葉を端的に一言で表してしまえば
「あーそういう意見もあるよね」である。
私への敵意や悪意さえないのならば、私は自分と相反する意見を持つ人間を理解するつもりもないが、ただただ受け入れたいし時には討論することだって厭わない。
繰り返し誇張しておくが、「敵意や悪意がなければ」の話だ。
ようやくここでタイトルが出てくる。
「整形する前の方がかわいい」
という意見について。
「顔いじる前の方がタイプ」「整形しなくても良かったじゃん」
YouTubeにアップした整形に関する動画やビフォーアフターのバズツイートには上記のようなコメントをいただくことが多い。
正直、こういった意見に関して私はつい、
「あ、やっぱ?」
と思ってしまう(笑)
だろうな、と。そう言う人もいるよな、と。
過去の私が多大な労力と大金をかけて顔の造形を変えるほどにまで自分の容姿に憎悪を覚えていたことが事実である反面、ぶっちゃけそれが自分の理想の高さからくる憎悪であるという自覚があったことも事実である。
いや、自分の容姿を憎く思って鏡とにらめっこしている時は「私が世界で一番醜いんじゃないか」とすら真剣に考えるのだ。でも時々、特に写真が盛れた日や褒められた日などに冷静な自分が現れて「いやいや私にもいいとこはあるしこの容姿を好んでくれる人間だっているでしょ」と考える自分もいた。
だから、整形前の方が好きと言われると、なんとなくわかる気がする。
気がするだけであって私はどう考えてもアップデート済みの顔のほうが良いとは思うのだけれど、昔の顔の方を好きこのむ人がいるという事実自体には理解ができる、ということだ。
「整形前の方がかわいいって言う人は努力したこの子に失礼だ」
「なんで素直に頑張ったことを褒めてあげられないの?」
このような意見で擁護してくださる方もいる。ありがとう。
私もそう思ったことだってあったのは本音。
でも今は、「整形前の方がかわいい」という意見を理解はできなくとも受け入れている。別段悲しいとも悔しいともムカつくとも思っていない。
と言うのも、「整形前の方がかわいい」という意見を受け入れることで、「整形前の私」が成仏してゆく気がするからだ。
成仏なんて言ったら笑ってしまうけどそのくらい容姿への執念は凄かったから、ひたすら自己否定によってでしか行動できなかった哀れな自分が、「整形前の方がかわいい」という意見のおかげで少しずつ成仏へのみちを辿っている。
もし私が「整形前の方がかわいい」という意見を理解できないからといって受け入れることすら拒否してしまったら、あまりにも過去の私が報われないな、と思う。
今になって思う、私は自分を全部とっかえてやりたくて整形したんじゃなくて、もっと好きになれる自分になりたいから整形したんだと。
過去の私すら少し愛おしく感じられるようになったのは、もしかしたらこのコメントがあったからなのかもしれない。
とはいえ整形した人のことを褒める時、私ならば絶対に
「整形する前もいいけど今はもっといいね」
と言うけれどね(笑)