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虚飾

「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。」

窪田啓作 訳 , アルベール・カミュ 著「異邦人」(新潮文庫)


この文から始まる「異邦人」は1942年に出版され、アルベール・カミュを一躍文壇の寵児にした小説である。

一見すると怪奇な文から始まる小説は、人間性、殊に"虚飾"というものについて考えさせられる主題を含有している。
「異邦人」は150ページほどの小説で数日もあれば読めるのでぜひ。

物語のあらすじ

第一部
主人公はムルソーという男性。この小説は、養老院にいた実母が亡くなった、という電報をムルソーが受け取った翌日から始まる。冒頭にも書いてあるように、ムルソーは電報を受け取った日にちさえ覚えておらず(本文には「おそらく昨日だったのだろう」という記述はある)、母の死に対して涙すら流さなかった。また、葬式の翌日には女と海や映画館に出かける始末。
そんなムルソーにも知り合いの一人や二人はいる。知り合いの一人であるレエモンに、海の近くにある知人の別荘に一緒に行かないかと誘われ、ムルソーは誘いに乗る。
しかし、そこで事件は起こる。浜に、レエモンと先日いざこざを起こしたアラビア人がいたのだ。彼らは喧嘩をはじめ、レエモンは腕を怪我してしまう。数時間後、別荘からの帰るころの時間に、ムルソーは陽のひかりにやられ、岩陰の泉に行くために再び浜を散歩した。そこで例のアラビア人に会う。アラビア人は匕首を抜き、構えた。暑さ、眼に入った汗、刃に反射した光、すべてがムルソーを襲った。
そしてその時に、煌めく太陽のもとムルソーは彼に弾丸を一発撃った。そして倒れた体に続けて四発撃ち放った。

第二部
ムルソーは逮捕され、裁判を受けることが決まった。裁判の前に、ムルソーは自身の弁護士に事件の詳細を語ることとなった。弁護士は、ムルソーが母の死に対して涙を流さなかったとを知っていた。弁護士がムルソーに「母の埋葬の日に苦痛を感じなかったか」と問うと、ムルソーは「それについて説明をするのは難しい。私はママンを愛していたが、ママンの死は何も意味していない。人は誰でも愛する人の死を期待するものだ。」と答えた。すると弁護士はひどく興奮した。ムルソーは「私が確信を持っているのはママンは死なない方がいいと思ったというだけだ。」と答えたが、弁護士は満足した様子ではなかった。その後弁護士は「埋葬の日に感情をおさえつけていたか、と言えるか」と問うと、ムルソーは「言えない。それはうそだ」と答えた。その後も弁護士と対話をするも、ムルソーは淡々と自身の思ったことを答えるだけで、弁護士の機嫌を損ねてしまう。そして、弁護士は憤慨して部屋を出て行ってしまう。
数時間後、予審判事との尋問が始まった。予審判事の方は射殺について尋ねた。「第一発と第二発のあいだになぜ間をおいたのですか」、「なぜ、あなたは、地面に横たわった体に、撃ち込んだのですか」、「なぜです、それを私に言ってもらわなければならない」とムルソーに問いたてる。ムルソーはしばらく黙り込んだ。彼としては弾丸を撃ち込んだことが事実であり、それを問われたから答えただけであって、そのことはそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
月日は経ち、裁判が始まった。裁判でも母の死、またその翌日について詳らかな事実の確認が行われ、ムルソーは事実のみを答えた。検事は、ムルソーが非情であること、葬式の翌日に娯楽にふけていたこと、弾丸を一発撃った後に続けて撃つという明確な殺意を持って射殺をしたこと、これらを加味し、情状酌量の余地なしとして死刑を求刑する。その後、裁判長に殺人の動機を聞かれ、「それは太陽のせいだ」と答える。
そして「何もいいたすことはないか」と尋ねられ、「ないです」と言い、憲兵に連れていかれる。
処刑の当日の夕べ、ムルソーは司祭と面会をする。司祭は「私はあなたとともにいます。しかしあなたは盲いているからそれがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう。」とムルソーに慈悲の言葉をかける。
そのとき、ムルソーの内部で何かが裂けた。大口をあけて怒鳴りだし、司祭をののしり、いなくならなければ焼き殺すぞ、と言った。その後も、君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ自信がないのだ、私は自信を持っている、君より強く、また、来るべきあの死について、この真理が私を捕らえているのと同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている、と叫んだ。
叫び終わったときには看守たちがムルソーを脅かしていたが、司祭は看守たちをなだめ、のちに部屋を出た。
司祭が部屋を出るとムルソーは平静を取り戻し、眠りについた。

夜のはずれでサイレンが鳴った。ムルソーに残された望みは処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、自身を迎えることだけであった。


ムルソーはサイコパス?

上記のあらすじを読んだ方は、ムルソーはサイコパスだと思うかもしれない。
しかし、彼はサイコパスなのではなく、ただ自分に正直である、ということを言いたい。いわば、彼は虚飾という言葉からもっともかけ離れた存在と言えるだろう。もし彼が悲しみを感じる人物だったとすれば涙を流すこともありえただろう。しかし、ムルソーは悲しみを感じはしなかったから、悲しみを感じなかっただけだし、わざと悲しむような行為をするということもしなかっただけなのだ。
母の死の翌日の娯楽も、ムルソーがそうしたかったからそうしたまでであるのだ。
殺人の動機に対して「太陽のせいだ」と答えたのも、奇をてらっているのではなく、陽のひかりにやられたがためにアラビア人に会ってしまい、彼を射殺した、という一応筋の通った返答をしたまでなのだ。(「太陽のせいだ」と答えるときに、「自分の滑稽さを承知しつつ」という記述があるため、これに関してはムルソーも可笑しさを認めてはいるが)

また、物語のクライマックスであるムルソーが司祭を罵倒する場面は、作中でムルソーが唯一内に秘めたる感情を暴露する印象的なシーンである。作中ではムルソーは無神論者として描かれており、当然、神は紛い物であると考えている。すなはち、紛い物の神を信仰している敬虔な人ほど、噓をついて生きているということになる。
そのような人物に「あなたは盲いている」と言われてしまう。ムルソーからすれば、有神論者は嘘をつき、眼を閉じ、紛い物にすがっている人物であるのだ。
ここの司祭とのやり取りからも分かるようにムルソーは眼を開き、真理を見つめている人物であり、断じてサイコパスではないと言えるだろう。


不条理

上記にようにムルソーは正直物であるということがお分かりいただけたかと思う。ただこの物語は、虚飾をそぎ落とした人間が、裁判所において、嘘をついたわけではなく、自分が正直者であったために裁かれるのである。
このように、筋が通っていないことを不条理と呼ぶ。(理不尽と同じような意味)
「異邦人」の作者のカミュは不条理を大きなテーマとした本をいくつも出版した。
ただ、カミュの言う不条理は「理不尽」という言葉で言えるほど単純ではないので興味のある方はぜひ勉強を。

結局、異邦人とは

題名の「異邦人」はムルソーのことを指している。ムルソーの言動、行動は普通の人間には理解しがたい。この物語の中でムルソーははぐれ者なのだ。しかし、ムルソーからすれば嘘をつき、思ってもないことを言い、お芝居をしている人物こそ異邦人であるのではないだろうか。

今まで生きてきた中で一度も嘘をついたことはない、という方はいるだろうか。おそらくいないだろう。
われわれは生きていく上で、必ず嘘をつく。それが決して悪いというわけではない。嘘は生活を単純にし、円滑にしてくれる。
しかし、ムルソーはそのようなことはしない。その究極の形として、一つの真理のために彼は死を受け入れたのだ。

終わりに

持論なのだが、名作とよばれるものは「人の在り方」ということが主題になっていると思う。
「異邦人」はページ数が少ないながらも、"虚飾"について考えさせるものを含んでいる。人はムルソーのように生きられるのだろうか、その問いに対する自分なりの答えを見つけてみると面白いかもしれない。
また、これも持論だが読書で大事なのはとにかく読み切ってみることであると思う。著者の意図が分からなくても、いつの日にかその体験がハッと急に意味を持ったりすると思うので。
この記事が誰かの役に立てれば幸いです。

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