Empowerment? 〜当然、競馬の話を添えて〜

最近、差別について、多様性について、ネットでよく激論が交わされているのを見かける。
性別についてのものだったり、肌の色についてのものだったり、時には安全保障に対する政治信条についてのものだったり、その時々だが、SNSの「ご意見番」みたいな人はその時その時で一家言お持ちのようで、日々活発な意見を多々交わしている。

ずっとその議論についてモヤモヤするものがあったのだが、先日ある本を読んでいたときに思いついたことがあったので、ここでその話をしたいと思う。

よく多様性の話とか、差別、格差の話を語る時に出てくる言葉として「empowerment」という言葉がある。私は愚かな小島国の人なので外国語的なニュアンスはわからないが、「英辞郎 on the web」を調べると「権限を持たせること、権限付与、権限委譲」「自信を与えること、力をつけてやること」という意味らしい。

今日の話は、ここで先に種明かしをしてしまうと「empowermentの背景にある考え方が多様性とか自分らしさとかそういう価値観とかけ離れているのではないか」という問題提起である。

「権限を持たせる」「自信を与える」という表現から感じられる通り、この言葉のどこかには、蜘蛛の糸のような「救い上げる」という要素が内包されているように思う。それは、蜘蛛の糸そのままに、強者が弱者に「権限を持たせる」形かもしれない。現代の諸活動を見ていれば、共感型とでもいうのだろうか、同じ階層、立場にいる人が「声を上げることで変えていく」というような形でそのグループの中で「自信を与える」ような種類のものであるかもしれない。なんらかの形で、世の中を持つもの、持たざるものに分け、その差を埋めることに本義がある、その差こそが社会悪であるという風に構図を作り、さらに、その土俵の上で「権限を持つ」こと、上に行くことこそが是とされているように思う。

 これは、empowermentという現代風の言葉についてだけの話ではない。「生活保護」などの古典的な社会保障の問題だってそうではないか。表現がいいとか悪いとかいう意味ではなく、「生活保護は削れ」「自助努力をしない人は生活保護などもらうな」という表現、考え方の背景にあるのは、なんちゃらモンスターのレベルのように「あいつはレベル20だから社会では活躍できないんだ、ふしぎなアメちゃんでも舐めて出直せ」とでも言いたげな話で、何か一つの軸があって、そのパラメーターによってその人の幸せが立場が変わる、だからこそ上に行こうとしなくてはならないという価値観の中で生まれる表現ではないか。

 しかし、私は、このような価値観、単線的な構造を設定して、これをもとに問題解決を図ろうとすること自体に大きな危うさがあるのではないかと思う。ここからは、うまく言語化しづらいので、ここ1、2年どハマりしている競馬の比喩に逃げながら少し話をしたい。

 これを読んでいる人のどれほどの人が競馬を知っているかは知らないが、競馬と一口に言っても数多くの種類のレースがある。そして、それぞれの馬には適性がある。本当にいろいろな要素があり、1、2年の私にはとても全ては語り尽くせないのだが、ここでは話を簡単にするために距離とダート、芝の話だけ抜き出して考える。現在、JRAの中央平地重賞には芝、ダートの2種類のコースがあり、距離も1000mから3600mまでの様々な距離がある。

 そして、馬から見れば、自らの適性というのは自らが自由に決められるものではないし、調教を通じて根本的に変えられるものでもない。血統だとかその馬の体質だとかそれぞれの要素で決められてしまうものである。そして、いくら名馬と言われる馬であっても、その適正から外れれば外れるほどその能力は発揮できなくなっていく。

 例えば、皆さんのよく知っているであろう(?)アーモンドアイという馬はGI・7勝と言われるが、彼が勝ったことのあるレースの種類は芝の1600、2000、2400の3種類だけである。彼女が最強!と言えば、彼女があらゆるレースに出ているあらゆる競走馬より強いとイメージするかもしれないが、おそらく今週の日曜日に開催されるダート1600mのユニコーンSにアーモンドアイがいきなり出走しても、勝つことはできない。その馬の適性の中で強いのであり、その外に一度出てしまえば、勝負にはならない。

 そして、あえて語弊を承知で言えば、アーモンドアイがこのように有名になりアーモンドアイ足り得た理由は、先ほどの芝1600〜2400という現在の競馬の主流の距離に適性があったからに過ぎない。世界にはこれ以外の距離の競争がメインの競馬などいくらでもあるし、芝のレースが中心であるというのも世界どこでもそうというわけではない。例えば、ダービーを始めメインレースはほとんどダートである世界にアーモンドアイが生まれていたとしたら、おそらく彼女の知名度はここまで上がらなかっただろう。

 知名度が高まらないからこそ、我々には目に入らないが、もちろんその逆だってありうる。もし、今の日本にダートでしか走れず、スタミナが取り柄で長距離に向いている馬が生まれたとしたら……、現在のダートの重賞というのは地方・中央交流にまで目を広げても2500mが最長、芝でいうダイヤモンドS、ステイヤーズSに当たるような距離のレースは存在しない。つまり、たとえ、ダート3000mにずば抜けた能力を持った馬がいたとしても、今の日本においては活躍する機会というのはほとんどない、活躍したいのなら少し不利な条件に挑まなければならないことになる。

 延々競馬の話をしているともう誰も読んでくれなくなるので、適性の話に戻る。(遠い昔に読者には感じられるかもしれない)先ほど、話をした「単線的な構造」で並べると、間違いなくアーモンドアイは100点、いや120点の名馬となり、ダート長距離が得意で、あまりあっていないダート中距離で走らざるを得なかった馬、または、得意な距離がなくうまく力を出せなかった馬は30点なり40点という点数がつくことになる。で、その根拠はなんなのか、時勢にあっているからだろうか。「勝利数です」「賞金です」「ほら客観的な指標でしょ?」と言って勝ち誇った顔をするのかもしれないが、実際にはその前提には「環境と能力のマッチング」が存在しており、その「客観性」などというものは所詮、その前提の上に立ったものに過ぎない。

 そして、加えていうならば、この「客観性」というものを高めるためにこそ、多様性が有意義なのである。先程の例で言えば、芝、ダート両方の分野で1200〜3600まで(もっと長いのがあってもいいかもしれないが)200mずつ該当レースが等しくあれば、少なくとも距離適性が、芝・ダート適性がどのような馬であっても公平に評価しうる土壌は整うことになる。それでも、直接的な力の差異を比べ、優劣をつけることはできないが、それぞれの環境において何番手であるか、どれぐらいの成績を残しているかを比較すれば、いわば「偏差値ベース」での比較はできることになる。つまり、環境の差異というのが取り除けるようになり、それぞれの人の能力が最大限発揮できる場所をそれぞれ提供することが可能な世界であれば、先ほど言ったような単線的な構造も少しは可能性が出てくるし、そういう世界ではempowermentだって説得力を持ってくるかもしれない。(ちなみに、ここまで読んだ人の中で「それでも、自分の適性を見つけるまでに時間がかかる。現実はゲームや競馬とかと違って適性を探すのが難しいし、2軸で図れるものではない」という主張が出てくるかもしれない。それはおっしゃる通りだと思うし、これについてはまた別の機会に記すこととしたい)

 ここまで話せば、わかりづらい文章でもある程度は伝わっていると信じたいが、やはり多様性を実現しようとすることと現時点で単線的な構造の主張を行うことは明らかに矛盾していると思う。多様性の先にあるのが、単線的な構造だというのならわからんでもない。だが、そこに十分な配慮をせず、単に自らが導いてやろう、私こそが問題に気づいている「強者」であり、気付かぬ人、遅れている人たちを導いてやる。達成したい将来へ向けた「壁」を突破してやろう。こういうアプローチは結局、「みんな、私みたいに走れないのか?じゃあ、東京競馬場に来てみろよ、私が2400mの走りを見せてやろう」と言って、「何がダートだ、短距離だ、遅れてんな」と言ってるぐらい陳腐なんじゃないかと思う。別にそこに貴賎はない。そもそもそんな「壁」取り払うことが適切かもわからない。「私がやってやる」思想には、そういう疑いの気持ち、認め合う気持ち、「自分らしさ」「それぞれの生き方」を認める意識が根本的に欠けてるのではないかと思う。

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