好きなものを好きと言わないのはいけないのか
「好きなものは好きと言おう!」という風潮がある。
実際、本来は誰から非難されるものでもないし、素直に気持ちを表現するのはよいことだろう。
個性が尊重され、個人の趣味趣向を開示しやすい時代になってきたこともあり、「好き」を表現する機会は増えたように思う。
ドラマで扱うテーマ
今期放送中のドラマ「おじさんはカワイイものがお好き。」は、まさにこれを題材にしている。
「カワイイ」ものが好きな男性陣がそれぞれに違った想いを抱えながらそれを隠して生きているのだが、同志や想いを打ち明けられる相手との交流を通して変わっていくお話だ。
「カワイイ」は人それぞれで、キャラクターであったり、猫、少女漫画など多分野に渡る。
「好き」を隠す利点
ドラマは次回の第5話で完結だ。
原作漫画を読んでいないので展開がどう違うのかは知らないが、ドラマとしては結末を迎えることになる。
「好きなものは好きと言おう」というチープな結末にはならないと信じているが、来週の放送を待つのみ。
彼らが「好き」を隠しているのは、開示したときの周囲の環境が悪く、傷ついた経験があるからだ。
本人が「男が可愛いもの好きなんておかしいよな・・」というイメージを持ってしまっていることも、被害意識を実際以上に高めているかも知れない。
ただ、そうした過去はさておき、「好き」を隠すことで別のイメージを他者に与えているのは純粋にメリットだと思う。
そもそも彼らは「傷つきたくない」「イメージを崩したくない」という当人の願望によってひた隠しにすることを選んでいるのである。
主人公の小路さんなどは、「イケおじ」として部下や周囲からの信頼を得ている。(可愛いものが好きと知ったところでもはや好印象な評価は変わらないだろうが。)
そこで「カミングアウトするのが正だ!」としてしまうのは暴論である。
隠す選択があっていい。
少し寂しいかもしれない
思えば、私も隠すわけではないが好きなものをあまり好きと言わない。
共感されることがあまりないと知っているからだ。
話して気まずい空気になるのも嫌だし、同志が得られるわけでもないので、どちらにとってもメリットがない。
それでも、私がその選択をしているんだけれども、一番好きなものではなく「これなら反応に困らないよね」というほどほどに好きなものを答えるのはやっぱり寂しい。
きっと、好きなものに対して同質の愛を抱いている人に出会えたら幸せなんだろうけれど、なかなか出会えないから仕方ない。
「理屈で分かっても心がついていかない」というのはこういう状態なのだろうな。
必ずしも好きなものを好きという必要はないが、言えた方がきっと、楽しい。