凡人でいい。【「小喜利の私」を見て思ったこと】
今日は「第24回 堂本剛 独演会 小喜利の私 〜 リモート剛で堂も初めましての陣 〜 第一話?」を視聴した。
「小喜利の私」は2012年に初回公演が開催され、それ以降続いている堂本剛くんの大喜利ショーである。
今年は本人が大喜利をするのではなく、ジャニーズの後輩「辰巳雄大(ふぉ〜ゆ〜)」「松田元太(Travis Japan)」「松倉海斗(Travis Japan)」が回答者として参加していた。
想定外の展開
私も剛くんもおそらく同じで、フジテレビ系列で放送されるテレビ番組「IPPONグランプリ」のような大喜利対決を想定していた。
ところが、実際は大喜利というよりも空気感と雰囲気で全てを持って行ってしまうような、ただただ面白いだけのお笑いショーだったように思う。
中でもTravis Japanの松田元太くんは想像もしないような発言を繰り返し笑いを取っていたので、「これがスターか・・」と言わざるを得ない。
もちろんこれは、お笑いの世界に入れば話は違う。
ジャニーズという枠組みの中、暖かい空気だったからこその面白さである。
しかし、才能というのはあるもので、誰もが思いつかないようなことをサラっとやってのける人は、いる。
天才の存在
「センスがある」
「才能がある」
「天才」
そう言われる人たちは確かに存在する。
世界の見え方が違うのか、神経伝達が特殊なのか、「普通に」考えていては及ばないところにやすやすと到達する。
常識的に考えて理性が止めるようなことも、突き抜けてしまう精神がある。
そういう人には人が集まるし、周りから見ても愛されているなと思う。
凡人でいいことを再確認する
私は普段から「そのままの自分でいいんだよ」とみんなに伝えているものの、やはり特殊な存在を目にすると「羨ましいな」「自分は何もないな」と少しマイナスな気持ちを抱く。
ただ、やっぱり突出して目立つということはそれだけ良い点があり悪い点もある。
それなら、どうせそれぞれの人間は個性の塊でオンリーワンなのだから、「凡人」の枠の中で特別な存在である方が「生きやすい」と私は思う。
天才とは天の才能であり、生まれ持ったものだ。
努力と行動によって真似ることができても、天才のそれとはワケが違う。
どうしようもないことを卑下するのはナンセンスだし、やっぱり、今を生きる自分を愛することが大事だ。
特別になろうと意識しなくても、唯一無二の存在である。
それぞれの個性を好きでいたいし、好きでいてほしいと思う。