情報は伝達によって変化してゆく
先人の教えはいつの時代も重宝される。
少し前は偉人の名言集など、昔の教えをまとめて解説した本が流行していたが、最近はYoutubeなどの動画へシフトしているようだ。
端的に整理して説明されているととっつきやすいのは事実だが、それを見ただけで分かった気になるのは少し危険だ。
大もとのソースのみが信頼に値する
「タルムード」を知っているだろうか。
モーセが伝えたとされる文書のひとつで、簡単に言えばユダヤ教徒の聖典である。
これは各国に翻訳されているが、Wikipediaによると
「聖典として認められるのはあくまでヘブライ語で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては意味を正確に伝えていない可能性があるとして聖典とはみなされない」。
どんなに一字一句間違えずに何度も読み解いたとしても、それに準ずる日本語がない場合は伝えようがない。そして、ニュアンスで訳された内容が広まるのである。
これはタルムードに限らず、あらゆる情報について同じことがいえる。
そのまま取り入れることはできない
さらに、一字一句読む人は限られる。むしろ、いないのではないだろうか。
どんなことも自分の過去の経験や知識と照らし合わせながら理解を進めるため、書かれている内容を純粋なままインプットすることは難しい。
読み飛ばしてなんとなく概要を知って満足する人がほとんどだし、そこから口伝されていく内容は原典とは異なるものだ。
情報は、発信源から離れれば離れるほど変化していく。
噂話に尾ひれがつくのと同じで、それぞれの思いや認識が混ざる。
相手を納得させるとか、話を聞いてもらうことが目的の場合、例え話でわかりやすく話したり、経験を交えて共感性を持たせるのが一般的な手法だ。
しかし、「正しく伝える」という意味では、何も付加しない純粋な情報そのままを間違いなく届けることの方が重要である。
意味を理解して情報を得る
分かりやすい言葉に置き換えるのが悪いとは言わない。
入門的な立ち位置として、これまで知らなかった人に興味を持たせるためには必要なことだろう。
問題は、簡単な言葉でふんわりと理解しただけで知った気になっている場合である。
分かりやすく平易な言葉は語弊が生まれやすいし、解釈の違いを生む。
その微妙な違いを表現するのが原本の難解な言葉であり、専門用語だ。簡単な言葉でいいなら最初からそう書いているだろう。
分かりやすく噛み砕かれた情報は簡単に消費できて楽しいけれど、それはそれであって、事実と異なる可能性があることを認識していなければならない。