【メモ】東京高判令和2年1月29日裁判所Website
報道
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旧ソ連の無国籍男性を難民認定 「地球上に行き場ない」(日本経済新聞、2020年1月30日)
「無国籍男性は難民」 東京高裁判決 国不認定、取り消し(東京新聞、2020年1月30日)
判決全文
第1 認定事実
証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,以下の事実が認められる。
1 第1審原告の家族
(1) 第1審原告の父
第1審原告の父は,ロシア革命後の1931年に生まれたアルメニア民族(無宗教)で,旧ソ連国籍を有していた。第1審原告の父の出生地は,当時のアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国のスピタクであった。第1審原告の父は,第1審原告の母と婚姻し,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国の首都トビリシで第1審原告の母と共に住居を購入して,居住した。第1審原告の父は,ジョージアではアルメニア民族差別がひどいため,1970年前後に,第1審原告の母や姉を置いてジョージアからロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦に移住し,北コーカサス地方(主要都市はソチ,ロストフ,クラスノダールなど)に居住するようになった。第1審原告の父は,その後第1審原告の母と離婚した。
第1審原告の父は,1991年の旧ソ連崩壊後には,ロシア国籍を取得し,2017年頃にロシアで死亡した。
(2) 第1審原告の母
第1審原告の母は,ロシア革命後の1931年に生まれたロシア民族(キリスト教ロシア正教)で,旧ソ連国籍を有していた。出生地は,ロシアの北コーカサス地方であった。第1審原告の父と婚姻して,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国に移住してその首都トビリシに居住し,第1審原告の父と共に住居を購入した。第1審原告の父がロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦に移住した後も,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国トビリシの自宅にとどまり,その後第1審原告の父と離婚した。
第1審原告の母は,旧ソ連崩壊前後のジョージアの領域内の混乱時期(1991年頃)に,トビリシの自宅財産を守るため第1審原告にトビリシ居住を命じて,第1審原告の長姉とともに,ロシアの北コーカサス地方に避難した。その後,モスクワに移住していたこともあった。第1審原告の母は,旧ソ連崩壊後はロシア国籍を取得し,2013年頃にロシアで死亡した。
(3) 第1審原告の長姉
第1審原告の長姉は,1954年に,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国の首都トビリシで出生し,旧ソ連国籍を有していた。
第1審原告の長姉は,第1審原告の母とともに,旧ソ連崩壊前後におけるジョージアの領域内の混乱時期(1991年頃)に,ロシアの北コーカサス地方に避難した。その後,モスクワに移住した。第1審原告の長姉は,旧ソ連崩壊後はロシア国籍を取得した。その後,第1審原告のロシア国籍取得の援助のため,英国ロンドン滞在中の第1審原告を訪れたこともあったが,2010年頃にロシアで死亡した。
(4) 第1審原告の次姉
第1審原告の次姉は,1965年に,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国の首都トビリシで出生し,旧ソ連国籍を有していた。第1審原告の次姉は,大学進学のため,第1審原告の父を頼ってジョージアからロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦の北コーカサス地方に移住した。
ロシアに移住したまま1991年の旧ソ連崩壊を迎え,旧ソ連崩壊後はロシア国籍を取得した。
(5) 第1審原告
第1審原告は,1967年▲月▲日に,いずれも旧ソ連国籍を有する父と母の間に生まれ,出生と同時に旧ソ連国籍を取得した。第1審原告は,無宗教である。第1審原告の出生地は,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国の首都トビリシで,未成年時代を,トビリシを常居所地として過ごした。
第1審原告は,旧ソ連の制度に従い,ジョージア(首都トビリシ)で学校教育を受けた。旧ソ連当時のジョージア・ソヴィエト社会主義共和国では,ロシア語による教育(ジョージア語は第2言語として履修)とジョージア語による教育(ロシア語は第2言語として履修)を選択することができたが,第1審原告は,ロシア語による教育(ジョージア語は第2言語として履修)を選択した。そのため,第1審原告は,ジョージア語の読み書き,会話能力が高くない。また,第1審原告は,アルメニア語を使いこなせない。アルメニア語の能力は,読み書きはできず,口頭での簡単な会話ができる程度である。学校教育ではアルメニア語を履修しておらず,アルメニアの領域内に長期滞在したこともなく,子供の頃にアルメニア語を使用する親戚との会話経験がある程度であるからである。
第1審原告は,旧ソ連国籍を有する者の義務として,19歳に達した頃から1年間(1986年~1987年),旧ソ連軍の兵役に服した。兵役の期間は,極東地域(ウラジオストク付近)にある旧ソ連軍の施設で勤務した。兵役を終えてジョージア・ソヴィエト社会主義共和国の首都トビリシに戻ってきた頃には,旧ソ連の中央政府(モスクワ)の各共和国に対する統制力が弱まり,民族間対立が顕在化し始めていた。このような情勢の下で,第1審原告は,1991年のジョージアの旧ソ連からの独立及び旧ソ連崩壊に伴うジョージアの領域内における政治的,社会的混乱に巻き込まれた。
2 旧ソ連崩壊前における多民族連邦国家であった旧ソ連の状況
(1) 民族
多民族連邦国家である旧ソ連では,民族ごとに,母語,宗教その他の社会的慣習を異にしていた。16歳以上の者に所持が義務付けられる身分証明書(国内移動用パスポート)には,所属民族の記載欄はあったが,所属共和国の記載欄はなかった。
旧ソ連では,人口の多い民族は,その民族居住地域を主な領域とする共和国(ロシア,ウクライナ,カザフスタン,バルト3国など)を連邦内で形成するのが通常であった。15ある共和国のうち,南コーカサス地方に位置するジョージア,アルメニア,アゼルバイジャンの3か国は,「コーカサス三国」と呼ばれることがあった。なお,北コーカサス地方に位置する地域は,ロシア・ソヴィエト共和国連邦に属していた。旧ソ連は,国土全体が陸続きであり,各共和国内に,少数民族(主要な居住地域を近隣の共和国とする民族や,独自の共和国を持たない民族)が集団で居住する地域,村落が生じることも多かった。第1審原告の父母のように,共和国内では少数民族(アルメニア民族・ロシア民族)であるが,当該少数民族の集団居住地域(村落)に集団居住しないで,都市部で当該共和国の主要民族(ジョージア民族)と混住する者も,珍しくなかった。
民族の帰属は,父系主義で決まるのが普通であった。第1審原告は,父がアルメニア民族であるため,母がロシア民族であるにもかかわらず,アルメニア民族扱いされた。旧ソ連時代の第1審原告の身分証明書(国内移動用パスポート)にも,アルメニア民族と記載された(甲63)。他の共和国に長期間居住していても,民族の帰属が変更されることはなかった。
多民族連邦国家である旧ソ連では,民族対立・民族間紛争の火種を,国土の至る所に,多数抱えていた。しかしながら,共産党一党独裁と,強力な中央集権制が機能している間は,大規模な民族対立・民族間紛争は,表面化することは珍しかった。
(2) アルメニア
アルメニア民族は,全世界でユダヤ人に次ぐ規模のディアスポラ(離散民族)である。アルメニア民族の居住地は,アルメニアの近隣諸国にとどまらず,世界各地に広がっている。アルメニアの領域は,アルメニア語を母語とし,民族の独自性の強い地域であり,旧ソ連内で独立共和国(アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国)を形成し,人口の大半をアルメニア民族が占めていた。しかしながら,アルメニアの領域外(旧ソ連の領域外を含む。)に居住するアルメニア民族の人口は,アルメニアの領域内に居住するアルメニア民族の人口よりも多いという実情にあった。第1審原告や第1審原告の父も,アルメニアの領域外に居住するアルメニア民族であった。
第1審原告の姓(A)は,アルメニア民族固有の姓であった(甲50)。このことは,アルメニア民族や隣接するジョージア民族には,容易に分かることであった。
アルメニアの領域外に居住するアルメニア民族の中には,母語(アルメニア語)の理解力が衰え,生活のために居住地の言語を使用する者も珍しくなかった。第1審原告も,居住地のジョージア(首都トビリシ)ではアルメニア語教育を受けることが困難であり,主にロシア語で教育を受けた。そのため,第1審原告は,アルメニア語がほとんど使えない。アルメニア語は,口頭での簡単なあいさつができる程度で,読み書きはできない。このため,第1審原告が,アルメニアの領域内においてアルメニア語を使用して仕事をすることは,困難であった。
アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国では,アルメニア民族に属する者であっても,共和国の領域外から移住してきた者に対しては,職業差別や政治的迫害(スパイの疑いをかけられる等)が行われることがあった。アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国の領域外で育ち,アルメニア語を使いこなせない第1審原告のようなアルメニア民族は,アルメニアの領域内には移住したがらないのが通常であった。この傾向は,旧ソ連崩壊後の現在においても残っている。
(3) ジョージア
ジョージアの領域は,ジョージア語を母語とし,民族の独自性の強い地域であり,旧ソ連内で独立共和国(ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国)を形成し,人口の大半をジョージア民族が占めていた。ジョージアの領域外に居住するジョージア民族の人口は,少なかった。陸続きであることや歴史的経緯の影響で,ジョージア領内には,ロシア民族,アルメニア民族,アゼルバイジャン民族,ギリシア民族など,他民族も居住していた。ジョージアの領域内には,非ジョージア民族が集団で居住する地域や集落もあった。第1審原告一家は,アルメニア民族集団居住地域(村落)には居住せず,首都トビリシで,多数のジョージア民族に囲まれて生活していた。
第1審原告は,ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国を常居所として育ち,アルメニア語をほとんど使えないが,アルメニア民族扱いされた。旧ソ連時代の第1審原告の身分証明書(国内移動用パスポート)にも,民族欄にはアルメニア民族と記載された(甲63)。
ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国の中では,ジョージア民族以外の少数民族に対する差別的取扱いが,社会の随所に,公然と又は隠然として存在していた。アルメニア民族も,同様に差別的に扱われることがあった。第1審原告の姓(A)がアルメニア民族固有の姓であることは,ジョージア民族にも容易に判明する事柄であった。そのため,第1審原告は,アルメニア民族としてジョージア民族から差別的取扱いを受けることが多かった。第1審原告は,15歳頃の時,アルメニア民族であるため,隣人女性と口論になった際に,金属棒で殴られて骨折したことがあるなど,つらい思いをしながら,ジョージアの領域内を常居所地として未成年時代を過ごした。
3 ジョージアにおける民族主義の沸騰と旧ソ連崩壊前後の情勢
(1) ペレストロイカ
1985年頃に旧ソ連におけるペレストロイカ及び東欧における民主化が始まると,連邦政府(モスクワ)の連邦内各共和国に対する統制力が弱まっていった。同時に,多民族連邦国家である旧ソ連の連邦内各共和国においては,それまで封じ込められていた各共和国内の多数派民族の民族主義的意識が沸騰していった。そして,民族感情の高まりと民族間対立感情を隠そうともしない雰囲気ができあがっていった。
これを連邦内各共和国の内側からみると,連邦内各共和国において多数派を占める各民族が,民族感情の高まりに伴い,連邦内各共和国を常居所地とする少数民族に対する差別,排斥を実行するという社会運動になることがあった。ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国においては,連邦政府(モスクワ)に対する反感の高まりと同時に,少数民族であるロシア民族,アルメニア民族,アゼルバイジャン民族,ギリシア民族などに対する排斥感情が高まり,少数民族に対する差別行為,排斥行為の実行が増加していった。この時点においては,非ジョージア民族に対する差別行為,排斥行為の実行は,主に民間におけるものにとどまっていた。
(2) ジョージアの独立宣言と旧ソ連の崩壊
1989年4月に首都トビリシにおける反ソ連集会に旧ソ連軍が発砲し,多数のジョージア民族の死者が出る事件(トビリシ事件)が発生すると,ジョージアにおける民族独立と少数民族排斥の社会運動が,ますます激しくなっていった。ジョージアは,1990年に,旧ソ連では異例の複数政党制のもとでの自由選挙を実施した。選挙で多数派を占めた民族主義的政党は,ジョージアの独立準備政策を進めた。その結果,旧ソ連崩壊前の1991年4月,旧ソ連からのジョージア共和国の独立が宣言された。形式的には,1921年に旧ソ連に崩壊させられたジョージア民主共和国を復活させる形がとられた。この間,1989年には東欧諸国の共産主義体制が次々と崩壊し,同年11月にはベルリンの壁が崩壊し,翌1990年10月には東西ドイツの統一が実現した。その後の1991年12月には,旧ソ連も崩壊した。
(3) ガムサフルディア政権
1991年4月に,民主的手続を経て,ジョージア共和国の独立宣言後の初代大統領に就任したガムサフルディアは,ジョージア民族優先政策,ジョージア民族優位擁護政策を採用した。ガムサフルディアは,非ジョージア民族に対する差別,排斥を,組織的に公然とかつ積極的に実行した。行政は,政府のジョージア民族優位擁護政策に従い,非ジョージア民族からの救援要請に耳を貸さず,非ジョージア民族に対する差別的取扱いが実行された。警察は,ロシア民族,アルメニア民族などの非ジョージア民族を犯罪者とする犯罪をでっち上げることがあり,ロシア民族,アルメニア民族などの非ジョージア民族からの犯罪被害申告には耳を貸さず,ロシア民族,アルメニア民族などの非ジョージア民族の身体的自由や財産は政府によって保護されない状態となった。ジョージアの領域内においては,少数民族に対する差別的言動,排外的言動が至る所でみられるようになった。
ジョージアの独立と非ジョージア民族に対する組織的な差別,排斥の実行に伴い,ジョージアの領域内からの少数民族の流出が激しくなった。その結果,ジョージアの領域内の人口に占める非ジョージア民族の比率は,著しく減少した。アルメニア民族は独立前の9%から5.7%に減少し,ロシア民族は独立前の7.4%から1.5%に減少した。ロシア民族やアルメニア民族は,大量にジョージアの領域外に移住した。独立後の新国家(ジョージア共和国)の国籍の付与についても,少数民族である非ジョージア民族に対して差別的な内容の国籍法が制定された(甲79)。ジョージアの領域内に長年居住実績のある者に原則としてジョージア国籍を与えるという国家分裂の際の標準的手法は,非ジョージア民族については採用されず,非ジョージア民族のジョージア国籍取得について厳格な要件を課すという内容であった。
(4) 1993年までのジョージア領域内の混乱
ジョージアにおいては,1991年12月に反ガムサフルディア派がクーデターを決行した。そのため,ガムサフルディア派と反ガムサフルディア派との間で内戦が発生した。首都トビリシでは,1か月近くもの間,市街戦が続いた。結局,ガムサフルディア派が内戦に敗れ,ガムサフルディア大統領は,首都トビリシから逃亡した。
内戦に勝利したクーデター軍(国家評議会)は,選挙で選ばれたものではなかった。そのため,政権(クーデター軍・国家評議会)の正統性を示すことが困難で,直ちにジョージア全領域の実効支配が実現できなかった。その結果,ガムサフルディア大統領失脚直後の1992年冒頭から,ジョージアは,無政府状態に陥った。ジョージア全領域において軍事的混乱がみられ,官民による略奪行為が横行した。少数民族排斥の社会運動が激しさを増し,官公署においては依然として少数民族排斥政策が組織的に実行されていたため,非ジョージア民族が略奪等の被害者となることが多かった。ガムサフルディア大統領が実行した非ジョージア民族排斥政策は,1992年の無政府状態下においても,中央や地方の行政,警察において,修正されないまま残存し,従前と同様に公的かつ組織的に実行されていたものと推認される。
クーデター軍(国家評議会)は,自らの政権の建て直しのテコに,ジョージア出身のシェワルナゼ(旧ソ連の外務大臣)の人気と能力を使うことを試みた。クーデター軍(国家評議会)は,1992年3月にシェワルナゼをジョージアに呼び寄せて,国家評議会議長に就任させ,政権の建て直しの試みを開始した。しかしながら,直ちに無政府状態が解消して,シェワルナゼの統制力とリーダーシップが確立したわけではなく,1992年から1993年にかけてのジョージア国内は,ガムサフルディア派(前大統領派)の武装ほう起など騒然とした状態が続いた。
1993年の年末頃までには,クーデター軍(国家評議会)は統治能力を徐々に回復し,治安も回復の方向に向かい,非ジョージア民族排斥政策がクーデター軍(国家評議会)の正式な政策ではないというタテマエも浸透し始めた。米国国務省により1994年に公表された1993年のジョージアの人権状況についての報告書には,「ガムサフルディアが政権を去ると政府による国籍言語宗教におけるジョージア民族優位擁護政策は終止したが,民衆の間に生じた民族主義的感情は燻り続けている。非ジョージア民族は乏しい財物・資源の獲得争いでいやがらせ・差別を経験した。地方警察は非ジョージア民族からの救援要請に無関心で,地方役人も非ジョージア民族差別に従事している。中央政府は,虐待差別への苦情を受けると,状況の修正を試みた(try to rectify)」との記載がある。なお,状況の修正を試みる(try to)というにとどまらず,中央政府が実際に状況の修正を実現したとは記載されていない。シェワルナゼは,1995年に,民主的手法により,新憲法制定と自らの大統領就任を成し遂げ,政権の正統性と国内統治能力を確立した。
4 ジョージア独立前後の時期に第1審原告が置かれた状況
(1) 兵役終了後(ペレストロイカ期)
第1審原告は,1987年頃,旧ソ連軍の兵役を終えて,ジョージア(首都トビリシ)の母と長姉の住む自宅に戻ってきた。当時は,旧ソ連の連邦政府(モスクワ)の連邦内各共和国に対する統制力が弱まり,各共和国において民族主義,民族間対立意識,少数民族排斥感情が沸騰している時期であった。ジョージアにおいても,連邦政府(モスクワ)に対するのと同程度に,ロシア民族やアルメニア民族などの少数民族に対する排斥感情が高まっていた。そのため,兵役終了後の第1審原告は,父の居住するロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の北コーカサス地方に移住することを希望した。しかしながら,当時ジョージア(トビリシ)の自宅に居住していた母の希望により,ジョージア(トビリシ)にとどまることとした。また,第1審原告は,手に職をつけようとして,修復士,靴製造職人,金属・プラスチック加工その他の様々な職場に労働者として雇用されたが,アルメニア民族であるため賃金の全部又は一部が支払われないという差別的扱いを,ジョージア民族の雇用主から受けることが多かった。ジョージア民族に雇われても賃金の満足な支払いが確保できないので,第1審原告は,個人で,商品(雑貨,食糧品等)の買い付けにロシアやウクライナとの間を行き来しながら,ジョージア(首都トビリシ)のバザール(市場)で,商品販売の仕事をするようになった。旧ソ連崩壊前は,旧ソ連の国内移動用パスポートを使用すれば,ロシアやウクライナとの間を問題なく往来することができた。
(2) ジョージアの独立と旧ソ連の崩壊の頃
ジョージアの独立(1991年4月)及び旧ソ連の崩壊(同年12月)により,第1審原告の旧ソ連国籍は消滅した。ジョージアの独立(1991年4月)により,ガムサフルディア政権は非ジョージア民族に差別的な内容の前記国籍法を制定した。当時の第1審原告は,民族的にはアルメニア民族に属し,出生地及び常居所地がジョージア国内という状態にあった。第1審原告の国籍の帰属は不分明であり,非常に不安定な地位に置かれた。客観的にみると,旧ソ連の国家崩壊(国家分裂)により第1審原告の旧ソ連国籍は消滅したと解するよりほかはなかった。しかしながら,当時の第1審原告は,生き延びるのに精一杯で,自分の新しい国籍の帰属や無国籍になったかもしれないことを意識する余裕がなかった。
1991年のジョージアの独立直後のジョージア共和国政府(ガムサフルディア大統領)は,ジョージア民族の民族主義,少数民族排斥の社会運動を背景にして,アルメニア民族を含む非ジョージア民族に対する差別的政策を政府の政策として採用した。その結果,ジョージア国内では,ロシア民族,アルメニア民族などの非ジョージア民族に対する社会的な虐待差別が行われた。警察官その他の公務員は,政府の政策に従い,ジョージア民族から虐待差別を受けたというロシア民族,アルメニア民族などの非ジョージア民族の訴えに耳を貸さず無関心を続け,かえってその職権を濫用してロシア民族,アルメニア民族などの非ジョージア民族を犯罪者とする犯罪をでっち上げたり,非ジョージア民族の財産を収奪したりすることがあった。1991年末のクーデターとその後の内戦によるガムサフルディア大統領の失脚後も,クーデター軍(国家評議会)が直ちに国内統治能力を確立できず,無政府状態が続いたため,ガムサフルディア大統領による非ジョージア民族差別政策が引き続き公的な政策であるかのような状態が継続した。
このような状況下で,第1審原告の母及び長姉は,1991年末までに,ジョージア(首都トビリシ)から母の出生地であるロシアの北コーカサス地方に避難した。第1審原告の母及び長姉は,ロシアに避難した後にはロシア国籍取得の手続を開始し,その後ロシア国籍を取得することができた。第1審原告の母は,第1審原告に対してはトビリシの自宅財産を守るためにトビリシに止まることを命令した。1992年頃の第1審原告は,第1審原告の母及び姉がジョージアからロシアに避難した後,一人でジョージア(首都トビリシ)に取り残されるという状況に置かれた。
(3) 第1審原告のジョージア脱出
ジョージアの領域内に一人で取り残された第1審原告は,無政府状態の続く1992年にも,ジョージアの領域内で,直前の政権の非ジョージア民族差別政策に基づくジョージア民族からの暴行や略奪を受け続けた。第1審原告は,外出時に自宅ドアを破壊された上,自宅荒し(窃盗)の被害を受け,母の貴金属などの盗難被害にあった。しかしながら,警察は,非ジョージア民族差別政策に基づきアルメニア民族である第1審原告の被害申告を受け付けないばかりか,かえって,被害申告をするならお前を殺す,ジョージアから出ていけと警察官から脅迫を受けた。また,バザールで,アルメニア民族であることを理由に,第1審原告所有の商品が警察に接収されることもあった。第1審原告の非ジョージア民族の知人は,その所有する住宅を補償なしに行政から収用されて,住宅から追い出された。知人は,第1審原告も同様の被害にあうかもしれないとして,早めの住宅の有償売却を勧めた。
第1審原告は,このままでは,アルメニア民族は,所有する財産についてジョージア政府による保護を受けることができず,ジョージアの領域内で生計を立てていく可能性や生存の可能性を奪われ,犯罪被害を受けても警察による保護を受けることができず,かえって警察に犯罪をでっち上げられるという恐怖から,ジョージアを脱出することを決意した。第1審原告は,在トビリシのロシア大使館(旧ソ連崩壊後)で,ロシアへの移住のために,入国ビザ申請,難民申請などをしたが,いずれも拒絶された。第1審原告は,国境検問を経ずにジョージアを脱出することを決意した。第1審原告は,1993年の始めにトビリシの自宅を売却することに成功し,売却により得た代金を米ドル現金と交換した。ジョージアの警察官は,アルメニア民族に属する第1審原告が米ドル現金を所持していることを発見すると,政府の非ジョージア民族差別政策を背景に,第1審原告に銃を向けて脅迫し,第1審原告から米ドル現金を強奪した。第1審原告は,所持金品が少ない状態でジョージア脱出を試みざるを得なくなった。第1審原告は,1993年3月始め,国境検問を経ないでジョージアを出国して,ロシアの領域内に入国した。
第1審原告にとって,1991年から1993年3月始めにジョージアを脱出するまでのジョージアの領域内における記憶は,当時のアルメニア民族への差別・排斥政策に基づく,身体や財産被害を中心とする恐怖のトラウマ体験の記憶であった。現在の第1審原告は,ジョージアのことに触れると,恐怖の記憶(当時のアルメニア民族差別政策に基づく被害の記憶)にさいなまれ,ストレス障害(悪化するとPTSDになるもの)のような症状を呈しているものとみられる。
5 ジョージア脱出後の第1審原告
(1) 旧ソ連内
ジョージア脱出後の第1審原告は,もともと父の居住するロシアの北コーカサス地方への移住を希望していたこともあり,1993年に,ロシア国内の官公署に赴いて,ロシアへの定住やロシア国籍取得の希望を申し出た。旧ソ連崩壊前であれば,旧ソ連という国家内での移動であり,ジョージアからロシアへの移住の難度はそれほど高くなかった。しかしながら,1991年の旧ソ連の国家崩壊(国家分裂)により,ロシアとジョージアが別々の独立国家となったため,移住の難度が甚だしく上がってしまった。また,当時のロシアは,ロシア国内の北コーカサス地方に属するチェチェン地域において民族分離独立をめぐる武力紛争が発生しており,これに伴い,南コーカサス地方(北コーカサス地方に隣接する。)に属するコーカサス三国(ジョージア,アルメニア,アゼルバイジャン)の出身者に対する警戒心も強かった。そのため,アルメニア民族に属し,ジョージアを長年の常居所としてきた第1審原告は,1993年には,ロシア国籍取得も,非ロシア人としてのロシア領域内の定住も,認められなかった。
第1審原告は,定住地を見つけられず,所持金品も多くないまま,あてもなく放浪せざるを得なくなった。当時は,旧ソ連崩壊後まだ日が浅く,国家分裂直後の混乱状態にあったため,第1審原告の所持していた旧ソ連時代の国内移動用パスポートを示して旧ソ連領内を国境を越えて移動することが事実上可能なこともあった(不可能な場合もあった)。第1審原告は,旧ソ連時代の国内移動用パスポート以外には,自己の身分を証明できるものを保持していなかった。第1審原告は,旧ソ連崩壊(国家分裂)後,新たに帰属する国籍を取得できないまま,客観的には無国籍者の状態に陥っていたが,自分の国籍の帰属や無国籍の可能性について意識的に考える余裕がなかった。第1審原告は,ドイツでは避難民が保護を受けやすいという情報に接していたので,ポーランド経由でドイツを目指すこととし,旧ソ連崩壊直後の旧ソ連の領域内を,1993年中に,ロシアからウクライナへ,さらにベラルーシまで移動した。
(2) 欧州諸国
第1審原告は,1993年中に,ベラルーシから鉄道でポーランドに入国し,ポーランドでも難民申請を試みてみた。しかし,申請書類が受理されなかった。そこで,ドイツ国境近くの町に行って就労した。その間,難民申請者用施設に滞在したり,不法出入国を理由に刑務所に収容されたりしたこともあったが,その後放免された。
第1審原告は,1994年にポーランドから鉄道でドイツに入国して,ドイツで就労した。難民申請をしたが,難民認定されなかった。収容施設に一時収容され,収容施設内では収容中の別のジョージア民族に属する者からアルメニア民族に対するヘイトスピーチを受けたこともあった。ドイツでは送還不能な無国籍者の長期収容や退去強制を行わないので,放免された。フランスの外国人部隊に入隊して経験を積めばフランス在留資格が取得できるという情報に接したので,フランスを目指すこととした。
第1審原告は,1996年にドイツから鉄道でフランスに入国して,フランスで就労した。第1審原告は,パスポートを持っていなかったので,外国人部隊には入隊できなかった。難民申請をしたが,難民認定されなかった。フランスでは送還不能な無国籍者の長期収容や退去強制を行わないので,収容されなかった。フランス滞在中に,カナダが難民申請に寛容であるとの情報に接したので,カナダへの渡航を他人名義の旅券で試みた。しかし,経由地のオランダで旅券の不正が発覚して,フランスに連れ戻された。
第1審原告は,1998年にフランスから陸路スペインに入国して,スペインで就労した。難民申請をしたが,結果が出なかった。
第1審原告は,1999年に,スペインから偽造フランス旅券を使ってノルウェーに入国し,難民申請をした。第1審原告は,ノルウェーの難民申請者用施設に滞在中,アルメニア民族であることを理由に,収容中の別のジョージア人から差別的言動を受け,ノルウェー滞在が苦痛になった。
第1審原告は,ノルウェー滞在が苦痛になったため,難民申請結果が出る前に,ノルウェーから偽造フランス旅券を使ってアイルランドに入国した。アイルランドでも就労し,難民申請もしたが,申請が受理されなかった。
第1審原告は,2000年に,アイルランドからバスで英国に入国し,2010年に本邦に入国するまでの10年近くもの間,英国に滞在した。難民申請したが,不認定となった。英国では送還不能な無国籍者の長期収容や退去強制を行わないので,長期収容されなかった。英国でも就労し,スクワッター(老朽空き家に不法居住する者)をして居住場所を確保していた。英国滞在途中の2005年には,偽造ギリシア旅券を使ってフィンランドに入国して難民申請を試みたが,受理されずに英国に連れ戻された。英国では,ロシア在住の長姉の援助によりロシア国籍取得も試みたが,在ロンドンロシア大使館から入手困難な証明書(英国国籍がないこと及びジョージア国籍がないことの証明書など)の提出などの無理難題を課されて,手も足も出なかった。現在の第1審原告は,英国滞在の成果として,英語で日常会話をすることが可能である(原審における第1審原告本人尋問は,英語による宣誓及び英語の通訳により実施された。)。
第1審原告は,入国審査を受けずに国境を超えることもあったが,多くの場合はブローカーが販売する偽造パスポートを使用して他国に入国した。
(3) 日本
第1審原告は,難民申請やロシア国籍取得が実現しないまま英国滞在が長期間に及んできたので,別の国での難民申請を考えるようになった。第1審原告は,日本にロシア村(既に廃止された新潟県所在のテーマパーク)という施設があることを知り,日本に興味を持ち,日本で難民申請しようと考えて,日本を目指すことにした。第1審原告は,平成22年(2010年)5月14日,偽造スペイン旅券を使用して,英国からオーストリア航空の旅客便に搭乗し,ウィーンで同航空の別の旅客便に乗り継いで,成田空港に到着し,わが国に入国した。
第1審原告は,日本入国の4日後の平成22年5月18日に,わが国における難民申請をした。法務大臣は,申請に対する調査をした上,平成23年4月11日,本件不認定処分をした。これに伴い,東京入管局長は,同年5月11日,入管法61条の2の2第2項の規定により,本件在特不許可処分をした。本件不認定処分に対する第1審原告の異議申立ては,平成26年9月19日に棄却され,同年12月19日に第1審原告に通知された。第1審原告は,平成27年5月15日,本件訴えを提起した。
また,第1審原告に対する退去強制の手続が行われ,平成24年6月12日に,東京入管主任審査官から,送還先をジョージアとする本件退令処分を受けた。本件退令処分に至るまでの退去強制手続において,第1審原告は,一貫して,仮に退去強制されるとしても,ジョージアは送還先として希望しない旨の陳述を,明示的に何回も行った。第1審原告は,一貫して,仮に日本からの退去を強制されるならば,難民申請が可能な他の国(ジョージアは明示的に除外)に行きたいという希望を述べた。また,優先順位は低いが,親族のいるロシアも希望すると述べた。
第1審原告は,難民支援団体からの保護費支給等の支援を受けて日本国内で生活していたが,平成30年7月20日に本件の第1審の請求棄却判決が出たため,支援が停止され,厳しい生活環境に置かれている。第1審原告の健康状態には一部問題があり,特に右足については「B,C」と診断され,感染症により右足切断のリスクがあると指摘されている。
(4) ジョージア政府の第1審原告受入意思の有無
第1審原告は,1967年から1993年始めまで,現在のジョージアの領域内(1991年までは旧ソ連の領域内でもあった。)を常居所とし,1991年までは旧ソ連(ジョージアの領域は旧ソ連の領域に属していた。)の国籍を有していた。第1審原告は,現在のジョージアの領域内で旧ソ連時代に出生し,現在のジョージアの領域内で旧ソ連時代のロシア語による教育を受け,旧ソ連軍の兵役にも従事したが,成人してまもなく旧ソ連の崩壊とジョージア独立直後の政府の非ジョージア民族差別排斥政策に基づく混乱の中でジョージアを出国せざるを得なくなり,旧ソ連の国籍を失ったまま無国籍者となったものである。しかしながら,以上の第1審原告の経歴を証明する公的な民事記録文書は存在しない。
第1審原告は明らかにジョージア民族には属しておらず(第1審原告はその氏名や風貌からアルメニア民族と判断されるのが通常である。),身分を証明する公的記録がないことから,その素性は不分明である。ジョージア政府の立場からみると,第1審原告が他国や他の地域から送り込まれようとしているスパイである可能性や,第1審原告がジョージアに内乱外患その他の混乱をもたらす可能性も否定できない。そうすると,ジョージア政府としては,第1審原告の受入れに警戒心を抱くのが通常であると認められる。
以上によれば,本件不認定処分時や本件退令処分時においても,その後の控訴審口頭弁論終結時においても,第1審原告がジョージアの領域内に送還された場合に,ジョージア政府が第1審原告を受け入れる可能性はないものと認められる。原審及び当審において,第1審原告をジョージア政府が受け入れる意思や可能性について質問しても,第1審被告側から回答がないことからも,このような事実が推認される。
ジョージアの領域は,第1審原告にとって出生後20年余りの期間の常居所地であり,当時の旧ソ連国籍に基づいて適法に永住できた地域であり,旧ソ連軍の兵役に従事することによりその領域の防衛にも貢献してきた地域でもある。それにもかかわらず,現在は,ジョージアの領域で第1審原告が生計を立てることをジョージア政府により拒否されているという状態にある。
第2 難民認定について(本件不認定処分の違法性)
1 迫害
(1) 前記認定事実によれば,次のようにいうことができる。
1991年4月のジョージアの独立とガムサフルディア政権の誕生により,ジョージア国内においては,アルメニア民族を含む非ジョージア民族を差別,排斥する政策が,政府によって公式に採用され,組織的に公然と実行された。その結果,ジョージア国内の人口に占める非ジョージア民族の比率は,著しく減少した。警察は,政府のジョージア民族優位擁護政策に従い,非ジョージア民族の犯罪をでっち上げ,非ジョージア民族からの犯罪被害申告に耳を貸さず,非ジョージア民族の財産や生命身体は,政府によって保護されない状態となった。行政一般も,非ジョージア民族からの救援要請に耳を貸さず,非ジョージア民族に対する差別的取扱いが実行された。このような状態が,ガムサフルディア大統領失脚後,ジョージアが無政府状態に陥り略奪行為が横行した1992年中も継続した。このような状況が落ち着きをみせるまでには,1993年が終わるころまでの時間を要した。1993年には,非ジョージア民族排斥政策がクーデター軍(国家評議会)の正式な政策ではないというタテマエも一部で浸透し始めたが,民衆の間には民族主義的感情が燻り続け,非ジョージア民族はいやがらせ・差別を経験し続けた。地方警察は,依然として非ジョージア民族からの救援要請に無関心で,地方役人も非ジョージア民族差別を実行していた。中央政府は,虐待差別への苦情を受けると,タテマエ上は状況を修正しようと試みたが,実際には,その試みは成果を上げていなかった。
第1審原告は,1992年に,ジョージアの領域内でジョージア民族からの暴行や略奪を受け続けたが,政府の非ジョージア民族差別政策に基づく対応として,警察に被害申告を受け付けてもらえず,かえってジョージアから出ていけと警察官から脅迫を受けた。同様に,第1審原告は,1993年には,ジョージア国内で,政府の非ジョージア民族差別政策に基づく対応として,警察官から米ドル現金を強奪されるという被害を受けた。第1審原告は,ジョージアの領域内では,政府の非ジョージア民族差別政策により,生計の基盤が破壊され生存の危機に追いやられるという恐怖を受けた。生存の危機に追いやられるほどの生計基盤の破壊の恐怖は,生命身体の自由の侵害による恐怖に匹敵するものであった。
(2) 以上によれば,第1審原告は,ジョージア国内で,生命身体の自由の侵害に匹敵するほどの生存権侵害の迫害を,公的かつ組織的に受けたということができる。すなわち,生計の基盤となる財産権の保障を受けられず,生計の基盤を破壊されて生存権が著しく侵害され,生存の危機に追いやられるという公的かつ組織的な迫害を受けたということができる。
2 迫害を受けるおそれがあるという十分な理由のある恐怖
(1) 前記認定事実によれば,次のようにいうことができる。
ア ジョージア政府は,本件不認定処分時及び控訴審口頭弁論終結時において,第1審原告がジョージアの領域内に送還された場合にこれを受け入れる意思を有していない。
第1審原告は,旧ソ連時代に現在のジョージアの領域内で出生し,現在のジョージアの領域内を常居所として旧ソ連時代のロシア語による教育を受けたが,成人してまもなく旧ソ連の崩壊とジョージア独立後の政府の非ジョージア民族差別・排斥政策を背景とする迫害の下でジョージアを出国せざるを得なくなり,旧ソ連の国籍を失ったまま無国籍者となったものである。しかしながら,これらの第1審原告の経歴を証明する公的な民事記録文書は存在しない。また,第1審原告はその氏名や風貌からアルメニア民族(非ジョージア民族)と判断されるのが通常である。このようなことから,第1審原告の素性が分からず,他国や他の地域からのスパイである可能性も否定できず,ジョージア政府としては,受入れに極度の警戒心を抱くのが通常であると認められる。そうすると,ジョージア政府は,本件不認定処分時においても,その後の控訴審口頭弁論終結時及び将来においても,第1審原告がジョージアの領域内に送還された場合にこれを受け入れる可能性はないと認められる。
イ 以上によれば,ジョージア政府は,ジョージアの領域内において第1審原告が生計を立てていくことを,現時点においても拒んでいるものと評価せざるを得ない。結局のところ,ジョージア政府は,ジョージアの領域内で出生し,ジョージアの領域内を常居所としてきた第1審原告に対して,ジョージア国内での生計の基盤を築くことを拒否することによって,ジョージア国内に戻っても生存の可能性を奪われるという生命身体の自由の侵害に匹敵する恐怖を与えている。その意味において,ジョージア政府は,第1審原告に対する迫害を現時点においても継続しているものと評価せざるを得ない。
ウ 本件不認定処分時及び控訴審口頭弁論終結時のジョージアの領域内において,政府やこれに準ずる機関により,ジョージアの領域内を常居所とする非ジョージア民族に対する組織的迫害が行われていることを認めるに足りる証拠はない。しかしながら,このような事情は,ジョージアへの入国を拒否されている第1審原告との関係においては,十分な理由のある迫害の恐怖を否定する論拠にはならない。すなわち,第1審原告は,ジョージアの領域内への入国及びジョージアの領域内での生計基盤の構築を拒まれていることから,ジョージアの領域内における生存権が保障されない(仮にジョージアに戻ったとしても,生計基盤が構築できず,生存の可能性を奪われる。)という恐怖を有するのであって,第1審原告については,十分な理由のある迫害の恐怖の存在を,肯定するほかはないものである。
(2) 以上によれば,本件不認定処分時及び控訴審口頭弁論終結時において,第1審原告がジョージアの領域内で迫害を受けるおそれがあるという十分な理由のある恐怖を主観的に有しているということができるとともに,客観的にも十分な理由のある恐怖の存在が裏付けられているということができる。
3 迫害の理由(人種)
1及び2の迫害や十分な理由のある恐怖の原因が,第1審原告がアルメニア民族に属する点にあることは,前記説示から明らかである。
4 以上によれば,第1審原告は,本件不認定処分時においても,控訴審口頭弁論終結時においても,常居所地を有していた国(ジョージア)の外にある無国籍者であって,人種を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するがために,当該常居所地を有していた国(ジョージア)に帰ることを望まないものとして,難民に該当する。
そうすると,第1審原告が難民に該当しないとする本件不認定処分は違法であるから,これを取り消すのが相当である。この点に関する第1審原告の請求は,理由がある。
5 また,前記認定事実(第1の5(4))によれば,本件不認定処分時においても,控訴審口頭弁論終結時においても,第1審原告は,ジョージアに帰ることが不可能であると認められる。さらに,前記認定事実(第1の1及び4)によれば,ジョージアは,第1審原告が常居所地を有していた国であると認められる。
そうすると,第1審原告は,本件不認定処分時においても,控訴審口頭弁論終結時においても,常居所地を有していた国(ジョージア)の外にある無国籍者であって,当該常居所地を有していた国(ジョージア)に帰ることができないものとしても,難民に該当する。
この観点からも,第1審原告が難民に該当しないとする本件不認定処分は違法であるから,これを取り消すのが相当である。この点に関する第1審原告の請求は,理由がある。
第3 退去強制命令について(本件退令処分の重大明白な瑕疵)
1 本件退令処分の全体について
本件退令処分は,第1審原告が難民であるという事実を見落として発令された。本件退令処分の発令には,裁量権の逸脱,濫用があったものといわざるを得ない。そして,第1審原告には在留特別許可がされるべきであったから,本件退令処分は,違法である。
また,第1審原告が難民であるばかりでなく無国籍者でもあって受入見込国が存在しないこと及び退去強制命令を発令すると第1審原告が地球上で行き場を失うことは,審査官ら退去強制手続担当者にも一見明白であった。そうすると,本件退令処分の瑕疵は重大明白であったということができる。以上によれば,本件退令処分は,その全体が無効である。
2 本件退令処分のうち送還先(ジョージア)について
(1) 仮に本件退令処分の全体が無効でないとしても,少なくとも送還先をジョージアと指定する部分は無効である。その理由は,(2)以下のとおりである。
(2) 本件退令処分のうち送還先に関する部分は,退去強制の手続において第1審原告が一貫してジョージアを送還先として希望しないと述べてきたにもかかわらず,ジョージアを送還先として指定した上で,発令された。
無国籍者である第1審原告には入管法53条1項にいう「国籍又は市民権の属する国」がないから,同条2項により「本人の希望により」同項各号のいずれかの国に送還されることになる。「本人の希望により」の解釈について,第1審原告は本人の希望しない国を送還先として指定することを禁じるものであると主張し,第1審被告は本人の希望を聴取することを定めたものであって,本人の希望しない国を送還先として定めることを禁じるものではないと主張する。
(3) 本件と異なり送還先として適切な国がある場合において,国籍又は市民権の属する国を持たない退去強制対象者(入管法45条参照)が,送還先希望国として当該適切な国を希望せず,当該退去強制対象者との関係性や受入れ可能性に乏しく送還実行不可能な国だけを希望するときについてまで,その送還先希望国のいずれかを送還先として指定しなければならないというのは不合理である。そうすると,入管法53条2項が退去強制対象者の希望しない国を送還先として指定することを絶対的に禁じたものと解するのは,不適当である。
しかしながら,退去強制対象者が送還先として希望しない国がある場合であっても,希望しない理由に相応の合理性があるときは,その希望しない国を送還先として指定することは,入管法53条2項の趣旨が本人の合理的な希望は尊重するという点にあると考えられることからすると,明らかに合理性を欠く。
(4) 前記認定事実によれば,ジョージアは,生計の基盤となる財産権を政府が非ジョージア民族に対して保障せず,生命身体の自由の侵害に匹敵する生存の危機に追いやられるという恐怖を受けたことから,第1審原告が出国を決意した国である。退去強制の手続において第1審原告が一貫して以上の点を説明し,それゆえにジョージアを送還先として希望しないと説明してきたことから,このようなジョージアの属性は,審査官ら退去強制手続担当者にも一見明白であったということができる。第1審原告がジョージアを送還先として希望しない理由には相応の合理性があり,このことは退去強制手続の担当者にも一見明白であったということができる。そうすると,本件退令処分のうち送還先をジョージアと指定する部分は違法であり,その瑕疵は重大明白であったということができるから,仮に本件退令処分の全体が無効とはいえない場合であっても,本件退令処分のうち送還先をジョージアと指定する部分は無効である。
3 以上によれば,本件退令処分の無効確認請求は,全部理由がある。
なお,仮に全部無効であるとはいえないとしても,送還先をジョージアと指定する部分の無効確認請求は理由がある。
第4 在留特別許可について(本件在特不許可処分の重大明白な瑕疵)
1 本件在特不許可処分について
(1) 本件在特不許可処分は,第1審原告が難民であるという事実を見落として発令された。本件在特不許可処分の発令には,裁量権の逸脱,濫用があったものといわざるを得ない。そして,第1審原告には在留特別許可がされるべきであったから,本件在特不許可処分は,違法である。
(2) しかしながら,本件在特不許可処分に処分の時点における重大明白な瑕疵があったということは,困難であるというほかはない。
2 そうすると,本件在特不許可処分の無効確認請求は,理由がない。
第5 結論
以上によれば,原判決のうち,本件在特不許可処分無効確認請求を棄却した部分は相当であるが,本件不認定処分取消請求及び本件退令処分無効確認請求を棄却した部分は取り消してこれらを認容すべきである。この趣旨に従い原判決を変更することとして,主文のとおり判決する。
東京高等裁判所第11民事部
裁判長裁判官 野山 宏
裁判官 橋本英史
裁判官 片瀬 亮
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