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日本で【多文化共生】が実現出来ない根本的な理由を考えてみる

昨年BLM運動が世界的に活発化した時期に、
「日本に人種差別なんてない」
という日本在住純ジャパの声が様々なところから聞こえた。

人口の95%以上が純ジャパを占めるこの国で、
東洋顔以外の日本人(ハーフやミックス)、
国籍が日本でない日本生まれの日本人、
様々な理由で海を渡って日本にやってきた人々、
への扱いは、純ジャパには理解出来ないことも多々ある。

無意識に物珍しさからジロジロ見てしまう。
髪質や肌の色について悪気もなく聞いてしまう。
日本語が分からないと決めつけて、頑張って英語で話そうとしちゃう。
お箸を使う姿を見て「すごいですね!」と言ってしまう。

そんなちょったしたことに思えることでも、
当事者達は、「純ジャパと同じように扱ってくれ」と思ってることもあるだろう。

ただ、このような『外国人は自分と全く違う人』という認識は、皮肉にも、当の当事者たちにも、
「自分たちは純ジャパと同じことを求められてないから、大迷惑にならない程度のことならちょっと羽目を外しても大丈夫!」と思わせかねない。

私が国内の英語キャンプで運営スタッフをしてた時の話。

休日に、キャンプで英語を教えるために来日してた米国人スタッフと一緒に街にでかけた。
彼らは旅の思い出のいち場面として、移動中の地下鉄で10人以下程度で集合写真を撮っていた。
「公共の場所だし、しかも電車の中だからあんまり騒がない方が良いんじゃない…💦」と、声をかけた私に、スタッフの1人はこう言った。

私達外人だから、周りの人そんなにきにしてないから大丈夫だよ!

耳を疑ったが、周りを見渡してみると、確かに他の乗客達は、
「あーまた変な外人がいる」的な、そんなに気にしてなさそうな態度で、だれも注意する人はいなかった。

この時気づいた。
ステレオタイプ的・偏見的目で誰かを見るとこは、そう見られてる人を開き直らせてしまうことに。

マジョリティが無意識に偏見の目を持つことで、
マイノリティがマジョリティと違うことが当たり前になりすぎて、
知らず知らずの内に両者の間にわかり会えない壁が出来て、
お互いが孤立してしまうことで、
結局偏見の目が取れないこの悪循環。

この悪循環が存在し続ける限り、この国に【多文化共生】なんてありえない。

純ジャパは純ジャパとして、
それ以外はそれ以外として、
それぞれ違う人生を歩むしかない状況。

私が日本に居てどこか息苦しさを感じるのは、こういうとこかもしれません。

でもどうやったらこの両者の間にある壁がとれ、
純ジャパとかそうじゃないかとか関係なしに、
『その人自身』として世の中が1人1人を見れるようになるのだろうか…

もやもやが耐えませぬ。

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