「stay」2024年11月27日の雑記
「復讐は何も生まない」という言説に対して、
「生産性の話してないだろ」とか「でも気持ちいいよ」なんて返しが定着して久しい。
私はここに、第三の言説を提唱したいと思う。
憎悪は、ただそれだけで純に讃えられるべきなのだ。
まあ実にくだらない自己弁護だけど、誰の裡にだって憎悪があるわけで、だからこれはみんなにとって得のある言説だと思う。
憎しみがない奴は異常だから無視することにする。虫にだって五分の魂のうちに憎しみを秘めているかもしれないってのにさ。
虚飾
私を大罪で分類するなら怠惰か暴食か憂鬱か虚飾といったところで、まあ四つも挙がってる時点で分類できてないだろって話なんだけど、ここでは虚飾の話をしたい。
私は劣っている。誰が考えるまでもなく自然的に決定された事項として。別にそれに文句を言うつもりはない。私とてそれなりに年を刻んでいるし、製造者に責任を問うには遅すぎるだろう。
だから、自分が劣っているのはいい。まあよくないけど。これによって迷惑をかけていることも多々あるだろうし。
問題は私よりも劣っている人間が、私よりも輝いていることだ。
ある面において劣っている人間が、他の面では優れている、なんてことはザラだ。だがそういう話でもない。
ただある一点において比較したとき、私の方が相対的に優れていて、彼(あるいは彼女)の方が劣っているのに、私は陰で、彼の者は光だ。
いやまあわかりますよ?実際のところ、本当に劣っているのは私の方だってのはさー。
でもそのくだらねー(あるいは素晴らしい)評価軸が見えないままに、泥に塗れたままってのはいい気分がしないワケ。
見えているもので言えば、私だって褒めそやされるべきだってのに。
やらない善よりやる偽善とか、手を動かした者が一番偉いとか、「結局行動しなければ無意味だ」的な言説に動かされてみても意味はないし。
そもそも衆目に晒されない、というのは間違いなくあるだろうけど(晒されたところで、評価されるかは別の話だが)。
とにかく、私はそういったキラメキの数々がくだらない虚飾の産物にしか見えず、たまに模倣してみても箸にも棒にも掛からず、だからそういったものが憎いんだ。
憂鬱
寒いと気分が落ち込みがちってのはよくある話だけど、私だって例外ではないわけで。
ここ最近は特に世界に絶望する機会が増えたように感じる。以前は気になっていなかったことでも、すぐに。
沈んでいるから動けないし、動けないからもっと沈む。いや、それは嘘かも。泥濘じゃ藻掻く方が沈むってのはジョーシキだもんねー。動かなくたって沈みはするけどさ。
まあだからなんだって話でもないんだけど、例えば信頼している相手が失望するような言動をしたら嫌じゃんね?
私が劣っているからこそ、私以外はまともでないと困るのだ。世界で唯一の悪徳、それが私であるべきなんだから。
魔王になりたいと思う。世界を討ち滅ぼしたいというよりは、全世界の共通の敵になってみんなを団結させたい。ついでに、何もかもを台無しにしたい。
馬鹿の気まぐれで大切な積み重ねがぶっ壊れるなんて、考えるだけでも楽しいじゃん?壊される側からしたらたまったもんじゃないだろうけど。
諦念の泥濘の中にいるから、結局悪になることもできないわけですが。絶望に絶望している。
暴食
食っても食っても腹が減る!飲んでも飲んでも喉が渇く!
比喩ではなく、実際に。
でもあんまり太っている感じはない(まあ、健康診断の結果は去年に比べて体重の増加を示してはいたけど)。
だから特に節制をすることもなく、むしろ家にいつでも食べられるようなオヤツを用意することで「お腹が減り過ぎて動けない」という事態を予防している。
もともと私は飢えに弱いほうで(強いやつがいるかはわからないけど)、空腹による体調不良で割と早い段階からグッタリしてしまうので、そうならないように気を付ける必要がある。
けど、それにだって限度はある。食費に全てを注げるわけでなし、買いに行くのだって一苦労だし。
この間「栄養が偏った食生活をしていると、いくら食べてもお腹が空く」みたいな言説を見て、なるべくバランスの整った食生活を心がけたけどダメだった。一朝一夕でどうにかなるものじゃなかったのかもしれないけど、結局、お腹が空いていることに変わりはない。
今だって。
人間を食べられたら嬉しいと思う。
抱き寄せて喉元にかぶりつけたら。溢れる血を思いっきり飲み干せたら。
まあ、そんな歯の強度ないんだけど。
いつか山奥に料理店を食べて、料理が運ばれてくるようにしたいものだね。
サラドとステーキくらいは選ばせてさ。
怠惰
もし、何かの間違いで私の伝記を書くことになったら、題は「怠惰」にしたい。それくらい重要なキーワードで、私を形作る根幹的なものだと思っている。
単に「怠け者」、と呼んでもらっても構わない。実際そうだし。
私は向上心のないばかだ。
だからなんだ、とも思っている。
私が退屈している間にも世界は進展していて、そこについていけないものでもなんだかんだ包摂されてしまっている。
だからといって、世界への叛逆として怠惰をやっているわけではない。むしろ、無主義的にやっているからこそ、この怠惰は根深い。
何もしたくないわけではないし、なんなら私のデスクには創りたいものを記した付箋紙が何枚も貼られている(ついでに、やらないといけないことも)。
しかしながらその中で実際に創ることができるのはほんの一部だけで、後は見慣れて背景と同化してしまう。
「完成させたところで何にもならない」無力感は一因としてある。「手順がわからずにやる気を挫かれる」準備不足も一因としてある。
でも、結局のところ根本にあるのは絶望だ。
私が何をしたところで世界は良くならないし、悪くなることもならない。空が広大で悩みが小さいものであれば、影響力だってそのはずだ。
生活の小さな範囲でだけ及ぶ力は少しずつ、しかし確実に自身を蝕み素敵に壊れる。
それが悪いこととも思わない。私が壊れて困る人はいない。私自身ですら(これ、以前にも言った気がするけど……)。
意味のないことに熱意をもって臨むなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことはないじゃんねえ?
諦念を主に低燃費にいきましょう。頑張ったって無駄ですよ。達観ではなく実感として。
何かを憎む人に対しての「生きにくそう」という揶揄がありますけど、何をも憎まぬ生活の方が生きにくそうではありますね。ここらへんはどう考えたって程度問題ですけど。
憎悪ではなく、憎善をやっていきましょう。
生まれもった性として。