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小川と空

幸せかどうかなど、男はこれまでの人生で考えたことはありませんでした。

生まれてから両親のない、男の頭にあることはいつも、毎日食べていくことだけでした。
手先が器用で、高度成長期の始まる時代だったこともあり、仕事に就くことはできました。

ただ、生まれつきの不自由な体で、徴兵を免除された この男のいる場所はいつも、名前もない、皆が忘れたような片隅でした。

男はそんなことも、人の悪意がどんな者に向くかということも、十分に承知していて、
それでも卑屈になることもなく、ただ静かに暮らしていました。

休みの日にはよく、この支流の支流のようなほとりにある、丸い岩に体を丸めて座り、
ただ流れを見ていました。

水の流れは、全てを押し流してくれました。

もちろん自分に友達など、六十年近い人生にただの一度も、考えたことはありませんでした。

最近は「こんな時代にこんな自分が生きてこれた。もう十分だ。 べつに死にたいわけではないが、いつ死んだっていい。」
そんなことを考えていました。

ある休みの日に川にいると、一人の子供が歩いて来ました。
何かを押し殺したような顔に、見覚えがある気がしていると、一度目が合い通り過ぎました。施設の子だとすぐに分かりました。
涙を流さない代わりに、こんな顔をする子供を、男はよく知っていました。
そうなる理由も簡単に察しがつきました。

それから、休みの日にその小川にいると、男はふと、その子供を思い出すようになりました。
その時はまだ、生まれて初めて自分以外の人間を気にかけていると、気が付いていませんでした。

それから幾日か過ぎた日、
その子供が、一人ではなく同じくらいの歳の子供と、川沿いを歩いて来るのが見えました。
あの時とは違う、少し笑って、
目の奥で、どこか遠くを見ていました。

男が、その子供の見ているものを捉えようとしたとき、
自分の中の、分厚くて重い何かがほんの少しだけ動きました。
男は慌てました。
得体の知れないものから逃げるように、その日は急いで家に帰りました。

男の子は、逃れるように道を歩いていました。
疑いをかけられることは、まだ耐えられました。いくら「自分ではない」と伝えても無意味だということも。
でも、母のことを言われるのだけは別でした。心に、救いのないものが込み上げてきそうになりました。ちゃんと母のことを言いたくて、口を開きかけても、ほとんど知らないことに気が付くとき、
果てしない、黒い悲しみの海が広がりました。

その波に飲み込まれそうで、男の子はただひたすら歩いていると、丸まった背中の男が、こちらを見ているのに気が付きました。
反射的に顔を外らしましたが、なぜかこの男になら、見られても構わないと思いました。

それからも時々この川とも呼べない小さな流れの前で、その男を目にしました。
片足を、少し引きずって歩くその男を見ると、男の子はなぜか、自分の中にある黒い海を、この男も、持っているように思えました。

男の子は、空を見るのが好きでした。空はいつも自分を落ち着かせてくれて、それが何かを探しているうちに、闇のような場所をすっかり忘れることができました。


男はあの日、自分の内側で、何が起こったのか理解ができませんでした。
そしてあの時から、仕事をしていても、あの子供は辛い目にあっていないか、今もあの時と変わらず楽しそうにしているか、などと考えるようになりました。
男は頭がおかしくなったのかと思い、そんな時はこれではいけないと、すぐに仕事に没頭するか、家のことを片付けました。
木工の仕事はこの男に向いていて、普段は家具を作っていましたが、今は11月、クリスマスの贈り物に子供の遊ぶ汽車や飛行機を製作していました。集中したらお昼もとらずに日が落ちていることもありました。
家までの道を、男の歩ける速さで歩いていると、とんでもないことを思いつきました。

自分の作っている飛行機を、あの子供が手にしたら、どんなだろうか…

ただ生き延びるためだけに働かせてきた男の頭は、すぐにそれを打ち消しましたが、小さくしようとすればするほど、思いつきは膨らみました。

とうとうお給金をはたいて、玩具の飛行機を手にした時、自分は本当にバカだと真剣に考えました。

でもすぐに、こんな物を自分が持っていても仕方がないから、子供に渡すのがいちばんだと考えました。

数日後には、同じ川のほとりで、その子供に飛行機を渡すことができました。
ぶっきらぼうに差し出された飛行機と、自分を交互に見る子供に、
「これで遊べ。」 と言うのが精一杯でした。

子供が、再び飛行機を見た時、やはりあの目をしました。
遥か遠くを見る目です。

そして男は理由もなく、目の前の子供に、
その遠くの場所を失ってほしくないと思いました。


今や男は、あの子供に何かしてあげられることはないかと、本気で考えていました。
随分考えた頃、わかりました。
金だ。金ならどんな時でも邪魔にならず、助けになる。
質素な生活をする男には、幾分かの預金がありました。
これからは今までより少しきりつめて、あと5年くらいか。少しまとまった金額になれば、若い人生の役に立つだろう。

男は、その考えがどんなに呆れてしまうものか、自分でもよく分かっていましたが、一人で死んでいく自分がそんな金を持っていても仕方がない と考え、この思いつきもまた、実行することにしました。

中学になった男の子は、部活で野球をしていました。
白球が、高く意志をもったように外野の向こうへ伸びていくのを見ると、男の子の胸には希望が燃えました。
いつか、空に行く。それが難しければできるだけ、空の近くに行く。
男の子は将来について、随分前からそう決めていました。
小学生の頃、よく川で見かける男がくれた飛行機の模型を、頭の中で何度も空に飛ばしているうちに…

それまで見ていた遠くの場所が、近くに感じるようになりました。
それからは以前にも増して勉強をしました。それだけではなくスポーツも、全てを頑張りました。
ただ、楽しかったから。
そうしていれば、その場所へ行けると信じられたから。

今男の子は、 川でその男に会った時、ほんの少しだけ話をするようになっていました。
少し離れたところに暫く座っていると、どうして男は自分にあんなことをしてくれたのか、伝わってくるような気がしました。
川の流れは、温かいと感じました。

中学3年になった男の子は、特別に優秀だったので、施設から高校に通わせてもらえることになりました。(※当時は施設で通わせてくれるのは中学までで、優秀な子のみ、高校進学させてもらえたそうです。)
選択肢はいくつかありましたが、男の子の頭にあるものは一つでした。パイロットになり空を飛ぶこと。
そこに費用の問題はあったのですが、そんなことはさほど気にせず、男の子の心は、いつも夢の方に向いていました。

男は、仕事に精を出しました。
今までも手を動かすのは好きでしたが、目的ができた今は、毎日がほんの少し、誰にも気付かれないくらいに活気づいていました。

月日は流れました。
今男は、あの川辺でもう子供とは言えなくなった青年と会うと、挨拶をして、少し一緒に、水の流れを眺めたりしていました。
言葉など交わさない二人の間に、何かが生まれて絶えず流れているように感じました。

青年が中学3年の秋、男はまとまった金を、青年のいる施設で渡しました。
受け取ってもらえないことを想定して、自分が持っていても仕方のない金だということ。ただこの子のために使ってくれたらそれで十分だということだけを、この時は言葉も用意して伝えました。

青年になった男の子はこのとき、唯一希望する遠方の高校を、費用がなく諦めようとしていたところでした。
そして、こんな思ってもみない申し出に、何と言ったらいいのか分からず、ただ施設の職員と話をする男の顔を、見ていました。
日に焼けた頬には深く皺が刻まれ、目は深い何かを湛えていました。
熱いものが喉に込み上げて、急いで俯きました。

帰るときに、その男は自分に手を差し出しました。こんな風に差し出された手を、青年は遠い記憶に持っているように感じました。
ごつごつした手が、青年の手を包みました。
後ろ姿を見送りながら、まだ手には、あたたかな温もりが残っていました。
涙が、とめどなく流れました。
この日から、青年の中にあった黒い海は、次第に消えてゆきました。


長い年月が経ちました。
皺に囲まれた男の目は、いつものように小川の流れを見ていました。

今、男は十分だと思っていました。
それはいつかの、もう死んでもいいと思っていた時とは違う、満ち足りた気持ちでした。

あの後、自分の渡した分では足りなかった費用を、施設の職員が方々に掛け合ってくれたことを聞きました。

男は立派になったかつての子供と、年に一度くらい、手紙のやりとりをしていました。
最初の手紙には 「ずっと黒いと思っていた海は、空から見ると青い色をしていた。」 とありました。
男にはそれが不思議に嬉しくて、時々思い出していました。

太陽の光を、水面がキラキラとはね返していました。
ここ数年は空を見上げることもよくありました。
彼方を飛んでいる飛行機を、彼は、目を細めて眩しそうに見つめました。

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愛という概念すらない人が、初めて愛情を持ったとき、それを愛と認識しないまでも、どんな風に扱うのか、表現するのか、書いてみたくなりました。
ある原始的な大地が描かれた絵がきっかけで、インスピレーションが湧きました。

ちなみに物語の男にはスピリチュアル設定もあります
オールドソウル♡地球最後の転生
今世の課題 : 一度も与えられたことがない愛を生み出し、表現する

実はすごく腕のいい職人さんでもあります♡

長文にお付き合い下さり、
ありがとうございました。
⭑ ࣪˖ᦏᦑ˖ ࣪⭑


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