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Hさんのこと。【ポルトガル語サークル関連のエピソード】



後悔


今春のこと。
かつての語学サークルの仲間から、Hさんご逝去の報を聞いた。
享年85。
実は昨年亡くなっていたという。
知るのが遅すぎた。

悲しい事実に接し、わんわん泣いた。
滅多なことでは涙を落とさないわたしが、ひたすら泣いた。
いつ以来だろう、しゃくり上げながら泣いたのは。
それくらい、Hさんとの今生の別れが切なかった。

そして後悔した。

昨年メールの返信が途絶えたとき、
ふとよぎった不安。
何とかしてこちらから安否を確認すればよかった。
ご家族に聞いてでも、どうしていらっしゃるか、尋ねるべきだった。
コロナ禍だ、という遠慮などしなければよかった。
それからしばらくの間、後悔と自責の念に苛まれ続けた。

ポルトガル語サークルの場で

コロナが途絶えさせたものは数多くあるが、
わたしの人生において最大の出来事は、
『ポルトガル語サークルの活動停止』だった。
20年近く続いたが、わたしが転職することもきっかけとなり、敢え無く活動終了。

Hさんは定年後、同僚数名とこのサークルに参加してくださっていた。
その当時はわたしも生徒側。
少人数ながらも和気藹々、みんなで楽しく取り組んでいた。

仕事の都合で何年かサークルを離れ、復帰しようと考えていた折、
Hさんから電話があった。

「教えている人が来月から来られなくなるっていうんだけど、あんた教えてくれないかね?」
と。

※注 新潟で言う「あんた」とは、「あなた」の砕けた言い方で、差別的な意味はなく、親しみを込めたニュアンス。

塾講師をしていたので教えることはやぶさかではなかったが、自分のポルトガル語は教えられるレベルではないように思い、一旦固辞。

だがHさんの
「あんたがいいんだって。みんなそう言ってるから」
という言葉で、決心がついて講師としてサークルに復帰した。

サークルの活動日は木曜日の夜。
Hさんは70代半ばを過ぎたあたりから、夜間の外出が容易ではなくなったとのことで、
サークルを退会された。

でもその後、わたしに個人レッスンをつけてほしいと仰り、平日の日中2時間ほど、月2回のペースで学習を続けていらした。

最年長の生徒さん


Hさんはわたしにとって、最年長の生徒さんだった。
自分の親と同世代。
1970年代にブラジルへ赴任された経験をお持ちだった。
現場マンとして現地の従業員とともに汗を流したという。
Hさんの人生において、このブラジル時代というのがとても印象に残った日々だったそうで、「楽しかった」と折に触れて思い出されていた。

時折その頃の話を聞かせてくださった。
フルーツが大きくてとても美味しかったこと。
みんな陽気で、お酒好きが多かったこと。
赴任した街は古都の趣を持ち、異国情緒あふれる場所だったこと。

Hさんの話しぶりから、ご苦労もある中、ほんの1年とはいえ充実した時間を注いだのだということがとても良く伝わってきた。

そしてHさんはよくこんなことを仰っていた。

「俺がもう30くらい若かったらさ、あんたと一緒にブラジルへ行って、商売立ち上げるんだけどな」

と。

その度にわたしは
「いいですねえ!これからだって、行けますよ!」
と返して、一緒に笑ったものだった。

コロナ禍が分かつ交流

実を言うと、コロナ禍以前からわたしはHさんの健康を心配していた。
持病のため、入退院を繰り返していたからだ。
個人レッスンについても、気を使うことが次第に増えていった。

そうしているうちに、パンデミックがこれまでの生活をすっかり変えてしまった。
わたしが転職を決めたのも丁度その頃。
そんなこともあり、わたしの方から個人レッスンを打ち切る提案をした。

Hさんは寂しそうな表情で、でも、分かった、といった風で、了承してくれた。

「コロナだから仕方ないよね」

当時どれだけの人がこのセリフを口にしただろう。
だが、大多数の人にとって、
「仕方ない」の言葉の裏に、
「本当はこれまで通りがいい」
という気持ちがあったのではないか。

Hさんもわたしも、同じ思いだったと信じている。

途絶えたメール

授業は終了したが、変わらずにメールのやり取りは続けていた。

Hさんのメールの大半は、ポルトガル語の質問だった。
「こういうときはどう言えばいいの」
「◯◯ってどういう意味」
「〜これで合ってますか」
など。

でもときどき叙情的なメールをくれたりもした。
例えば
「我が家の庭にボンスジーアスが咲きました」
という感じ。
ボンスジーアス(bons-dias)とはポルトガル語で「朝顔」のこと。
なかなか風情のあるメッセージだなあと、返信に
「『朝顔に釣瓶とられてもらひ水』の季節が来ましたね」
と書くと、たいそう喜んでくださった。

そうしてメール交換は続いていたのだが、しばらく間が空いたある日、電話がかかってきた。

「文字を打つのが大変になっちゃって…」
というHさんの声。
以前のような張りが失われ、「おじいちゃん」という感じの発声になっていた。
いつも通り接したが、多分にわたしは動揺していただろう。
なんとなく、なんとなくだが…もう時間はそんなにないかもしれない…という思いがじわじわと湧いてきたからだ。

年が明け、毎年来ている年賀状が届かなかった。
もしかしたら、わたしが年賀状を卒業する、と言ったから遠慮してくださったのかも。
でも、もしかしたら…
お元気だといいが…。

そのまま時は流れていった。

さらに1年。
わたしは自分が制作協力をしたテレビ番組の放送日を伝えるべく、Hさんにメールを送ってみた。
いつもならすぐでなくとも
「必ず見ます」
と返信が来るのだが、何日経っても、一向に返事は来ない。

ひょっとして…
と嫌な予感がしたが、ご家族に尋ねるにしても、どう切り出せばいいか…。
考えあぐねているうちに、また時は過ぎていった。

残る言葉たち

そして冒頭の話に繋がる。
わたしがご案内のメールを送ったとき、
既にHさんは鬼籍に入られていたのだ。

事実を知るなり、涙が溢れて止まらなくなった。
涙ってこんなに出てくるものなのか、と、咽びながら現実を必死で受け止めた。

Hさんはもうこの世にいない。

その事実がわたしの記憶を刺激したのだろうか。
これまでHさんにかけてもらった言葉が、とめどなく脳内に溢れてくるのだった。

「なんでも知ってるね、大したもんだ」
「あんたの教え方は分かりやすいね」
「俺がもう30くらい若かったら、あんたと一緒にブラジルへ行って…」

そして、一番嬉しかった言葉が浮かんできたとき…
Hさんの優しさと自分の不甲斐なさが相まって、ますます涙が止まらなくなってしまった。

それは、個人レッスンの相談を受けたときに言われた言葉。

「教えられる人は他にもいる。
能力の高い人は何人もいる。
でも、あんたがいいんだよ。
なんたって人柄が良いんだ。
だから、あんたから習いたいんだ」

こんなにもわたしを信頼してくれて、
好きでいてくれて、
なおかつ励ましてくれるなんて。

Hさんのこの言葉は、以降わたしのお守りになっている。

会える場は

なぜ唐突にHさんのことを思い出したかというと、
実は、昨夜の夢にHさんが現れたからだ。

夢の中でHさんは
「悪い、もう100円貸してくんないかね」
と。
わたしは
「いいですよ」
と小銭入れからコインを取り出して渡す。

Hさん
「あんたはこのあとどうするの?」

わたし
「空港へ行くんですよ」

Hさん
「じゃあ、送ってやるわね」

わたし
「ありがとうございます。いいんですか?」


…とここで目が覚めた。

現実のHさんは、亡くなる数年前に運転免許を返納している。
先ほどHさんから来た過去のメールを遡って探してみたら、
「小生、免許を返納しました。早まったと後悔しています」
と書いてあった。

Hさん、わたしの夢ではきちんと運転してたよ。
わたしを乗せて送ってくれようとしていたよ。


Hさんが亡くなったのを1年以上も知らなかったこと、
気付けなかったこと、
何もできなかったこと。

Hさんは悲しんでいるんじゃないか?

との思いに苛まれていた。

だが今回、Hさんはこうして夢の中でわたしと会って、コミュニケーションを取ってくれた。

許してくれたのだろう。
情けないわたしのことを。

ありがとうございます、Hさん。

そうか、これからは会えるんだな。
夢という場で、変わらない姿で。

わたしからの提案

Hさん!
夢の中で、一緒にブラジルへ行って、商売立ち上げましょうよ!
またいつでもポルトガル語のレッスンつけますから。
遠慮なく仰ってください!
楽しみにしていますよ。



※サムネイルの写真:
在りし日のHさんとの
ポルトガル語個人レッスンのひとコマ。

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