言語と文化と世界観
「ピダハン― 「言語本能」を超える文化と世界観」と言う本の感想です。
大変興味深く、面白い本でした。
分野としては言語学の本になりますが、言語に関する事だけに留まらず、人の幸せとは何か?と言う事を深く考えさせられる本です。
内容は、アマゾンのマイシ川沿いに住んでいると言われる、ピダハンと言う先住民族についてのこと。
彼らの話すピダハン語の話者は400人を割っており、絶滅するのも近い言語と考えられてます。
そのピダハン語は、現存する他のどの言語とも類縁関係がないという、極めて珍しい言語なのだそうです。
特長をちょっと上げただけでも・・・
・左右の概念がない。
・数の概念がない。(子どもの人数も知らない)
・色を表す言葉が無い。
・現在形でしか話さない。過去形も未来形もない。
・後悔や心配の概念がない。
・直接体験しか語らない。
・神の概念が無く、神話もない。
・挨拶がない。
・儀式がない。
・子どもと大人の違いという概念がない。
・生活の中で昼と夜の違いがない。
・音素は11種類しかなく、5つのコミュニケーション方がある。
口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、通常の語り
「心配」という概念が無いので、食べ物を蓄えたりもしないし、富を蓄えると言う発想もないんです。勿論、お金もありません。
そんな彼らの生活を世界に紹介した、著者のダニエル・L・エヴェレットさんは、元々熱心なキリスト教徒で、伝道師でした。
野生の動物や巨大な虫達にいつも脅かされる生活を強いられる、アマゾンの密林に乗り込んでいくわけですから、強い信仰心と相当な覚悟がないとできません。けれども、この著者はピダハンの人達と生活を共にするうちに、自分の信仰に疑いを持ち始めます。
神を信じて生きることが、人間として最も幸せな生き方と強く信じていた彼ですが、後悔の念も未来への心配も持たない人に、布教をすることが無理であることに気づきます。
常に幸せで「今」を生きている彼らに、神は必要ない、と。
そして、今は言語学者になってるんです。
ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。風雨で小屋が吹き飛ばされると、持ち主が誰よりも大きな声で笑う。
魚がたくさん獲れても笑い、全然獲れなくても笑う。
腹いっぱいでも笑い、空腹でも笑う。
ピダハンとともに初めてひと晩過ごしたときから、わたしは彼らがとても忍耐強く、朗らかで親切なことに感じ入ってきた。
このみなぎる幸福感というものは説明するのが難しいのだが、わたしが思うにピダハンは環境が挑んでくるあわゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて、何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。
だからといってピダハンの生活が楽なわけではない。
そうではなく、ピダハンは何であれ上手に対処することができるのだ。
「おやすみなさい」に当たる言葉が、「寝るなよ、蛇が来るぞ」なのだそうです。家で寝ていても、いつ蛇に襲われるか分からないから。
その為、彼らの睡眠時間は短く、熟睡することも殆どないらしいです。けして楽な生活をしている訳ではないんですね。
医療がないので、子どもの死亡率も高いし、平均寿命も短い。現代人の私たちよりも、死は身近な存在なんです。だけど彼らは幸せで、笑いの絶えない生活を送っています。
ピダハンは未来を描くよりも、一日一日をあるがままに楽しむ傾向にある。彼らは食料を保存しない。
その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。
いつも「いま」に着目して、直接的な体験だけに集中しているのだ。
まさに、禅や悟りに興味のある人達が、求めている状態で生活してるわけです。
悟りと言う概念もなく、神聖な体験をした訳でもなく、ただただナチュラルにそのままを生きています。
でも、太古の昔、私たちの姿とはこうだったのではないか?と思ったりします。私たちは、文明を進化させることと引き換えに、「いま」に生きることを手放してしまったように思います。
彼らの生活の中には疑いや葛藤がありません。
疑問が出て来るより前に、既に答えと行動が一致しているようです。「いま」に生きるとはそう言うことなんだと思います。
ピダハンに出会いわたしは、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問をもつようになった。
信仰心を疑い、ピダハンと共に生活していくうちに、わたしはもっと深甚な疑問、現代生活のもっと基本の部分にある、真実そのものの概念も問い直しはじめるようになっていた。
というより、わたしは自分が幻想のもとに生きていること、つまり真実という幻想のもとに生きているという思うに至ったのだ。
私たちは色々なものを持ちすぎてるのだと思います。
物質的なものだけでなく、概念とか、価値とか、経験とか、義務とか、教えとか・・・
ちょっとした行動にも意味付けし、大切にしています。そして目に見えない所有物ほど、持っている事に気づかないんです。
でも、それこそが幻想。その幻想に束縛されているのに、そのことに気づかない。
所有物からの束縛自体が「自分のアイデンティティ」になっているように思います。
真実を求める程に、真実という深〜い幻想に入っていくわけですが、自分では進歩しているように感じるんです。その進歩の感覚すら幻想なのに。
エヴェレットさんも、先住民達が彼の話すキリストの言葉に感動などしたら、更に深〜い「真実と言う名の幻想」に入っていったんでしょう。けれども
「おまえはイエスに会ったことがあるのか?」
「イエスはどんな顔をしているんだ?」
「じゃあどうして、そいつのことがわかるんだ?」
と言って取り合わない上に、今まで会ったどんな有神論者よりも幸福に満ちている。厳しい生活も問題なく生きている。
そんな彼らとの生活の中で、「真実という幻想」の中から揺り起こされてしまったんだと思います。素に戻る事ができたんだと思います。
いわゆる、真実を求めると言うのは、今いる「真実と言う幻想」の束縛から、別の「真実と言う幻想」の束縛に移るだけのこと。
そこから抜け出すのは、やはり直接体験のみに絞って生きることなのかなぁ、と、読んでいて「禅」っぽいところに、思い当たります。
そのピダハンにも文明の波が押し寄せていて、近年、電気がひかれ、なんと!近くに子どもたちのために、
ポルトガル語の学校ができてしまったそうです。
文字を知らない子どもが学校に通うって、素晴らしいことだと思いがちだけど、ピダハン語と言う、世界にも稀な言語の消滅を促進することには違いない。
過去と未来に捕われない幸福に満ちた生活も、無くなってしまうのかと思うと、胸が痛くもあるし、切ない感じがします。
日本にも江戸時代までは「個人」とか「自由」の概念はなかったらしいですが、(生活に必要ないから概念が生まれなかった)言葉を輸入しちゃうと、概念も芽生えちゃうし、やがて価値観も変わり生活も変わっていきます。
この本が発売されてから随分経ってるし、ピダハンと言う言語も更に淘汰が進んでいる可能性が高いと思われます。独特な文化が消失することを思うとグローバル化は、良い事なのか、寂しい事なのか?
なんて、じわ〜んと考えてしまうのでした。
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