インド人と密教
インド人というのは、概して理屈っぽくしつこい。かつてパソコン関係のサポートで在日インド人を相手にしたこと(明確にインド人だったと分かるだけで)3回ぐらいあるが、論理破綻してることが割と多いこの界隈でインド式クレームは大変理路整然としていて対応に苦慮したものである。(つまり前提条件が違うロジックなので、その前提条件の誤りを丁寧に説明しないといかんのだ) 西原理恵子も印僑のめんどくささを茶化して書いてたが、マジ面倒ではあった。
そんなウパニシャッドインド人の中でもレジェンド級にロジカルでしつこいのが釈尊である。なんで王家に生まれて何不自由なく暮らしてたのに仏教し始めたのかがまずよく分からん。城の4方向の門から出て……という説話は私も知ってるが、それで「人の苦しみとは何ぞや」とガチで思索を深めてガチ修行に行く所は同意できぬ。
で、ガチにガチガチのゴリゴリに考えて「ああ、五蘊皆空、これかぁ」となったのが般若経で、そのダイジェストが般若心経だ。大体の事は般若心経読めば書いてあるんだが、要約された内容がめっちゃ短い割に玄奘三蔵の訳した奴は600巻超えで仏教経典中最大級のボリュームとなっている。
まぁ、般若経も大乗経典という釈迦入寂後に作られた経典なんだが、この辺も説明が必要か。まず仏教の教えは小乗仏教から始まる。個々人の心の救済と悟りを得る為の教えだ。まず第一歩としてここをクリアしないといけない。で、大乗仏教というのは、個人だけではなく「みんな救いましょう」って事から始まってる。当然初期仏教経典には無い教えだが、インド人はウネウネと小乗仏教のロジックから思想を広げて行き「釈尊理論で行くとこうなる」と仏教の枠組みを拡張して行くのだ。(ここでロジカルかつめんどくさいインド人がそう言う人同士でめんどくさい話をしつこく続けて仏教の理論強度は上がったが、めんどくささとしつこさは数段上がった)
で、大乗仏教では理論を練る錬る煉るネして密教という次元の理論体系に到達する訳だが、あのインド人が只管に練っただけあり難解である。インド人のロジカルシンキングに600巻分付き合えとか言われても困っちゃう。そも、三蔵法師玄奘が態々インドまで旅したのも、クソめんどくさい仏教経典が中国に伝達するまでに変質してロジックに破綻があったり、納得できない部分が多数あったからだ。おかしい、インド人っぽくねぇ!と気付いた玄奘は「本場行って原典貰ってくるべ」とインドに向かった訳ですよ。(この時点で玄奘もかなりインド人化してると思う)
こんな経緯がありまして、仏教では「顕教」という初等科向けの教えと「密教」という高等課程に分離して、初等科の顕教を学んだ後に個別指導で密教を学ぶスタイルになった。この密教部分の日本における大家が弘法大師空海サンであり、天台宗の開祖である最澄も空海から密教を学ぼうと師拝した。ところが最澄氏は実際クソ忙しかったのもあるだろうが、講義のノート借りて写す大学生の様に密教経典借りて筆写しようとした訳だ。これには空海さんも「ちゃんと講義に出てノート取らないと身に付かないよ……」と苦言を呈するのだが、それが原因で2人は仲違いしてしまう。
そも、あのインド人の内よりねちっこく理論展開するバラモンの中でも特にめんどくさい人らが練ったロジックだから、インド行く前の玄奘が嘆いた様に「お経だけでは中々上手く伝わらない」のよ。だから態々インドまで行って経典と教えの両方持ち帰った訳ですわ。教え(解釈)が不要ならインドに経典発注したらええ。
で、この時空海さんが貸し渋ったお経が理趣経という経典で、実際これを誤解して邪教化した事例が発生している。真言立川流という事で知られている「事件」だ。簡単に言えば人間の髑髏に色々呪いして本尊とし、男女の性交によりエクスタシーを悟りとして云々という……「実は真言立川流ビタイチ関係なかったらしい」(これが明らかになったのが2018年……ぅゎぁ)
単なる真言宗内の権力闘争において、誤導とレッテル張りで真言立川流というマイナー派閥に居た政敵排除を試みたという……Oh ネット工作員かよ……
実際邪教というか理趣経を誤読してやらかした集団の名は残っていない。が、どうやら実在した事は確からしい。空海氏が予見した「ちゃんと修行や口伝含めて学ばないと教えが歪む」が実際起きてしまったのだ。やっぱ弘法大師パねぇな。
と、言うわけで具体的理論的に密教をリアルに描き出そうとすると、弘法大師から「やめときなさい」と言われてしまうンゴ……ちゃんと高野山行って修行して阿闍梨から口伝受けないと歪んでしまうのは歴史的に見ても正しい。実際歪んだ実例がある。しかし密教の密教らしい部分を描かないと「仏教」にはなるが「密教」にはならぬ。そして修験道には密教が混じっているのだ……
困った。密教を語らず密教を表現するって、ムズいぞ。禅宗の公案みたいだ。
とりあえず現段階では理趣経部分も出したくはあるが、下手に扱うと弘法大師にめっ!されちゃうので(最澄も怒られたんだからワイなどけちょんけちょんであろう)
1.「顕教では無いので詳しくは話せぬが」逃げ
2.「自性清浄と言ってな、そも人が生きると言う事は別に不浄でもなんでもないのだ。かと言って誤解はいかんぞ。過度に拘るのは、いかん」
3.「仏道修行の初めには女性を避けるがな、そもお釈迦様は……いかんいかん、喋りすぎだ」
4.「お前はそのままで良い。瑠璃を好きなことも、瑠璃といると幸せなことも、皆が瑠璃を愛していることもお釈迦様はご存じだし愛でておる」
5.「とりあえず経を読め。読誦に功徳がある」
お釈迦様や仏様の表記揺れ修正しないとな。
このくらいなら許されるかなぁ……あかんやろか。
ここで「大楽金剛不空真実三摩耶経、如是我聞……」とやって玄人ウケを狙う(漢音読みがミソ)
このお経唱えてる時の風に当たると風邪ひかないと言う言い伝えがある。
仏教部分の描写に凝りたいのは訳がある。前に書いた日本人の宗教観にも関連するんだが、「日本人、仏教知らなさスギィ!」なのである。色即是空を「色は空っぽ」とか平気でやるし(おいおい、通俗解説本でも読めば必ず書いてあるネタだぞ!?)、仏ビームでゴブリン壊滅したり、なろうやカクヨムでは主人公の名前に「三蔵」と入れちゃう作品もある。三蔵って経蔵・律蔵・論蔵の3つに通じた高僧に対する尊称だぞ(ググればマッハで出てくるよ!)……モノカキが物を書くときに言葉を調べないのは大罪である。だがしかし何でか仏教界隈が創作に登場するとほんとガバガバで俺はお辛い。神道の人なんですけど。
しかし私以外の人は私では無いので、ワタクシ的にはガバい仏教描写でも満足出来てしまうのだろう。恐らく彼らの想定読者に私は含まれていない。ワタクシが満足できる解像度の作品は、現状私自身が書くしか無さそうなのだ……その拘りや解像度の高さは下手すっと誰にも理解されないかもしらないけれど、少なくとも1人ここに理解者がいる。「私」だ。
私は私が楽しめるように話を書く。自分が楽しく無いのを他人のために書くとかおかしいべ。功徳積んで解脱しようって魂胆か?
私は私が楽しめて(小乗)、更に他者が楽しんでくれて(大乗)それが後々仏道に繋がる微かな可能性に賭ける。
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