お国言葉

所謂方言である。過日ギアストのワールドチャットで「東京の人は標準語を喋ってるイメージ」的な話を見かけたのだが……

東京人は東京弁喋ってるゾ☆


割と標準語に近いから誤解されとるし、中には東京弁が東京で喋られてるから標準語だと勘違いしてる人もいるかも知らんが……

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典型的なのはヒ音とシ音が混ざったり入れ違ったりする奴だ。東京言語圏だと「日比谷と渋谷」を「ヒビヤとシビヤ」とか発音したり、上記の様に「火が強かった」を「シガツヨカッタ」に発音してしまう。まぁ詳しくはWikipediaでも見てくれ。

おっ始めるとかぶん殴るなんかも標準語ではなく東京方言だし、しょっぱいなんかも標準語では「塩辛い」だ。

ただ、物語やドラマが東京を舞台にする事が多かったり、そこでナチュラルに東京弁に無自覚な人が東京弁使ってるせいで「東京弁=標準語」と誤解してるんだよ。まぁ、標準語が東京の言葉ベースだから仕方なくはあるが、東京にも訛りはある。

前に名古屋に仕事行った時、現地の派遣の皆様が「俺たちはあんまり訛ってにゃーも……」とバリバリ名古屋訛りで喋ってて「ギャグなのか」と当惑した事があるが、案外関東民もそんな感じなのかもしれない。東京人が訛って無いなら東京人はみんなNHKのアナウンサーみたいに喋りますわ。しかしそんな奴はまずおらん。

更に東京周辺にも地味に方言があり、この間亡くなった志村けんは多摩弁を使う。(老人役の時に使う「あんだって?」とか多摩弁だな)

それぞれ見て行くと、方言の系統が街道筋沿いに分かれてるのが分かる。横浜とかは東海道系の訛りがあるし、多摩弁は甲州地方の影響受けてる感。埼玉弁は地域毎に影響を受けた地域が異なる。まぁ埼玉は大まかに言えば武州北部だが、幕藩体制時は小藩と天領の混成地域だったから言葉も細分化されてんだよ。これが「埼玉」という共通アイデンティティが成立しなかった理由であるかと思う。

で、江戸弁ちゅーのは江戸期に造成された方言なんだが、今も昔もここには数多くの他国出身者が集い、その地に馴染んでいった。江戸弁もその傾向があり、やはり近隣諸国からの言葉の流入が見られる。その前には多分江戸弁の前駆となる方言があったのだろうが、江戸以前の関東というと「太田道灌」に触れない訳には行かない。太田道灌、関東各地で戦に明け暮れてるんだが……基本鎌倉公方方で関東管領上杉家家臣。敵は古河公方だ。割と派手に戦ってるんだが「当時の関東は政治や文化の中心である京都から見たらど田舎」で、日本史の授業でも余り時間を割かないのである。(なお、太田道灌は風呂場で暗殺されてる。自作伝奇の「えん」で敵方が主人公を風呂場で暗殺しようとするのは太田道灌がイメージソース)

まぁ、江戸以前の関東に関しては小規模勢力が点在してその時その時で味方する勢力変えてたみたい。その「節操の無い武力集団」を徳川家康が江戸に来てから個別に対談し、帰農させたらしい。ウチの近所の飯田家もそうして帰農して、代わりに代々名主を務めた家柄だ。きっと帰農したら末代まで庇護してやる的な話をしたのだろう……飯田家は今でも細々と畑を耕してる。神君家康公との約束は反故に出来ないんだろう。律儀だネ。

お国言葉に話を戻すと、関東のそんな経緯から「あちこちに方言があり、人の流れで次第に混成していった」と私は見る。その中で私が地元で見てちょいと興味深いのは漢字の転用?の多さだ。

Ingressやってた時に地域の庚申塚とか調べてたんだけど、中に「日吉三大権現」という石碑があった。日吉山王なら分かる。日吉山王大権現なら分かるのだが……三王?は? また去年見つけた「大六天領内」の石碑も大六天ではなく第六天なら分かる。第六天魔王ですな。信長で有名な。あれ多産とかを求めて信仰する事あるんだよ。天魔だけど。

どーも当地、識字率低めで口伝により信仰を伝えてきた可能性が高く、石碑とか作る際に「口伝期間が長過ぎて、元の漢字忘れてるんじゃ無いか」疑惑がある。この辺では色々な文化が(荘園主だった)鶴岡八幡宮経由で伝播して、それを口伝したのではあるまいか。すると音素的には江戸以前の鎌倉方面で用いられた言葉に近い言葉を話してたかも知らん。

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純戦士のおじさん
方針変えて、noteでの収益は我が家の愛犬「ジンくんさん」の牛乳代やオヤツ代にする事にしました! ジンくんさんが太り過ぎない様に節度あるドネートをお願いしたいっ!