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海上の場合 -無数のモナドに依るひとつの街の物語


海の上にいるときはひとりだ。
独りだけれど、独りで無い気もする。

手漕ぎのオールが重たく水を弾く。
海面はきらきらとさざめき、揺らぎ、深く潜っていく。この水はあの水とは違う。
青、群青、深緑、山が映り、逆さまの街が映り、そこには誰もいない。覗き込んでいる私すら。

船着場は小型の船しか入らないから、殆どが手漕ぎか帆船で静かなものだが、やはり自然では無い船陰や波で魚が逃げるから、私は他の船が来ない所まで船を進める。

小さな入江。浅い湾。
どこまでも開かれた海は、しかしすぐに球となり果てが来る。
縁ではあっても果てでは無いのかもしれない。
どちらにしろ、あそこまで行こうと思わない者にとっては、世界の果てであることに違いはない。

海の上にいる時、世界の中で独りぼっちだ。
私は私であって、私ではあるけれど私では無い気もする。私は私では無いけれど私で無い訳でもない。
私にとっての自然は山でも森でもなく海であって、海の上にいる時自然と一体となっている気がする。
魚や貝を獲って、食べて、作られている私が生きている。それはとても自然的な行為だ。

安らぐ訳ではない。
気を抜くと直ぐに海にやられる。そうやって沈んだ船を幾つも見てきた。
自然は優しい訳ではない。けれど実として、死により物質となることが自然と一体になるということではない。

風が吹いている。鐘が鳴っている。

ぼろぼろに切れた手から血が滲む。海水は染みる筈だが、その感覚はもう忘れてしまった。

陸にいる時が生きづらい訳ではない。
酷い扱いを受けるとか、つらい思いをするとかもないし、不遇な訳でもない。どちらかというと、何も考えていない気がする。
陸にいる間は、一人でいても誰かといても、特に何も感じていない。ただ淡々と日常をこなしている。やるべきこと、やった方が良いことが目の前に現れ、それを処理しているだけだ。

そう、生きている感じがしないのかもしれない。

海の上で感じる、自分が気を抜いたら死ぬという、恐怖と隣り合わせのスリルを求めている訳ではなく、(陸地にいても自分の過失無しに突然死に至る出来事は存在する)、唯々、自然の中に自分がいるという感覚。
自分独りではない、脈々と続いて来た、これからも続いていく、しかも必然ではない大きな流れの中に自分が組み込まれ、その一部として動いている安心感。抱擁。一体感。

海の上にいる時、私は私ではあるけれど、私だけではなく、私で無い訳でもない。
そういうことなのかもしれない。




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ゲンヤ(詩人)
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