第23話「ミヤツカ」
ある雨の日、僕は健忘症の男の子を道端で拾った。
それは、今年の5月中盤の話。
駅前を歩いていると、変な男の子に出会った。
五月の大連休。今日は土砂降りの雨だった。
暗雲が立ち込め、昼間だと言うのに空が暗過ぎる。
中学生くらいの子だ。傘もささず辺りをキョロキョロと見渡しているのだ。
なぜ屋根のある方へ避難せず、雨を受け続けているのだろう。
彼の服装は5月のまだ肌さむい時期に家着の半袖半ズボンとラフすぎる格好をしている。
まるで、寝起きのままこの場所にタイムワープしてしまったかのようだ。
「ねえ、君、大丈夫?」
と、もう意味はないが、
男は真っ黒な大きな傘の中に彼をいれてあげた。
少年は顔を上げる。
そこにはニコッと優しい穏やかな顔をした青年が彼を見下ろしていた。
「はっ!あれ?ここは?」
ガバッと起きる。
君野の自我の意識が戻る。気がつくと知らない家のベッドに布団をかけて寝ていた。
「ここは僕の家だよ。」
と、すぐ隣にいた自分より少し年上のお兄さんがキャスター付きの椅子に座っていた。
僕が気づくまで、パソコンで作業をしていたようだ。手を止めてにこやかにこちらを向いた。
「あ、あの…、誰ですか?僕はなんでここにいるんですか?」
と、不安そうに、寝ていた布団を深く被って身を縮こませている。
流石にずぶ濡れのままにはさせられないので彼の衣服は乾燥機の中。
今はバスローブのようなものを着させて寝かせている。
何があったのか不安で仕方ないのだろう。
「あはは。怪しいものじゃないよ。和山駅前で君がずぶ濡れで立ってたから心配でね。なにか、虐待にでもあってるのかい?」
と、彼はそう小首を傾げた。
「親はとっても僕に優しいです!わやま…わやまって堀田くんの最寄駅だ。」
と、独り言のように呟く。
「堀田?堀田ってあの、中学生の堀田?」
「僕の知ってる堀田くんはえっと、クラスメイトで眉が太くて、モテモテでかっこいい人!僕が憧れてるんです!」
と、目を爛々にして答える。
「君は大帝黒(だいていこく)中学校の一年生ってことかな。」
「そ、そうです!その堀田くんと一緒にアイスを食べに行ったんです!」
「下の名前はわかる?」
「吉郎です!」
「あ、それは君の名前かな?」
「僕は君野吉郎です!あの名前は?」
「僕は宮塚永久(とわ)。高校一年生。えっと、君野くん。堀田友樹と同じクラスってことかな。」
「あ、はい!」
「そーなんだね。僕と彼はいとこなんだよ。」
「ええ!そーなんですか!?」
ここで彼の疑念や不安は払拭されたようだった。
もしかしたらこの子は、堀田に会いにいきたくて迷子になったのかな。
でもそう言わないのはなんでだろう。
「僕、4月に事故にあって、健忘症でフラフラとしちゃうんです。それでいつも気づいたらお団子とかお惣菜とかたい焼きとか片手に歩いてたりして…。」
「へえ。いつもこんなフラフラしてるってこと?」
「そう、みたいです。たまにですけど…。」
「ふーん…。とりあえず体調悪くない?」
「はい!ちょっと寒いくらいで。」
と、布団に縮こまる。
宮塚は徐に布団にいる君野に近づく。
そして自分の額から髪の毛を上げると、もう片方の手で彼の額の髪の毛を下から上にあげるとコツッと頭をくっつけた。
「…うん。熱はなさそうだね。今温かいミルクココア作ってくるから。甘党?」
「はい!甘党です!!」
と、君野は元気に答えた。
それから、2人の交流は密かに始まっていたのである。
君野はいじめを受けていた時のゴールデンウィーク、宮塚と意気投合し、その連休を全て彼と遊ぶことにそそいだ。
この時はまだそれほど寂しかったのだ。
しかし、それは堀田に助けられ、第一歩を踏み出した途端、宮塚との交流は少なくなっていった。
その約2ヶ月後…
「あれ…?」
それは、7月の夏休みの中の出来事だった。
君野が意識を取り戻すといつの間にか、宮塚の部屋の中にいたのだ。
昼の晴天の午後2時だと言うのに真っ黒なカーテンで締め切った部屋だ。
そのためこの部屋の灰色のコンクリートの壁は薄暗く、まるで廃工場の一角のよう。無機質すぎる。
机にはデスクトップパソコン。モニターが2台、彼を見下ろすように付いている。椅子とベッド。
シルバーの鉄の5段の収納棚には長方形の真っ黒な機械や、地球儀、何かの資料が真っ黒な分厚いファイリングの中にある。
そして部屋には年季の入ったピアノが。
上に物が置けるタイプの四角いピアノだ。
「言ったの忘れちゃった?僕のお母さんがピアノの先生を以前していて。リビングにあった使わないものをここに持ってきたんだ。」
宮塚は君野があまりにピアノをまじまじと見るのでそう答えた。
その壁には無数の多種多様な壁時計。
それが壁時計専門店のように壁に埋め尽くされるように飾られている。
かなり落ち着かない。
しかも時間があっていないのか、鳩時計が12時でぽっぽーと鳴いたが今の時間は午後2時12分。
またすぐ隣の振り子付きの時計も全く異なる時間でゴーンゴーンと音を出す。
その上の時計からは、午後4時をさし、クラシックの音楽が流れ、中の妖精たちが機械仕掛けに動き出している。
音がごちゃごちゃなって頭がおかしくなりそうだ。
しかし家の主の宮塚はそれを気にも留めない。
相当な時計マニアなんだろう。
君野はその異様な部屋に不安になる。
「…日光が当たると時計がダメになるの?」
「ああ、日焼けするの嫌だからカーテンをしているんだよ。」
と答えた。
それより、自分は今、何をしていたのだろうか。
どうやら、今宮塚と一緒にピアノを弾いていたようだ。
気づいたらその年季の入ったピアノが目の前にあって、君野の手は鍵盤の上に置かれている。
宮塚と一緒に長椅子に2人が並んで座っている。
君野が右側、宮塚は左側で和音を奏でる方だ。
「ピアノ上手くなったでしょ。相性が良かったみたいで。なんでも弾けるようになったんだよ。」
と、宮塚はにっこり笑い、彼は君野にそう自慢する。しかし、君野は自分が今まで何を弾いていたのかも見当がつかなかった。
「…もしかして、僕また健忘症になってました?」
「さっき、僕の家のインターホンが押されたら君がいたんだよ。堅苦しいから敬語いらないよ。」
「そ、そうなんだ。」
と、君野もその言葉に戸惑いを隠せない。
隣の宮塚の手には、君野のスマホが握られている。
その操作は手慣れたもので、暗証番号も、アプリがどの位置にあるのかもすべて把握しているようだ。
しかし、君野は勝手にスマホをいじられていても、とくに怒るようなそぶりはせず、ただその操作をじっと見ている。
「あ、これ、デートしたやつ?」
と、宮塚が君野のスマホの写真フォルダを表示して君野に見せる。
そこには君野が桜谷と堀田とダブルブッキングデートをした時のものが。
その写真は、堀田を隠し撮りしてバレるまでの楽しそうな一部始終が連写で残っていた。
「ほら、覚えてない?このデートをする前に僕がスマホを無くさないように耳にイヤホンをつけて音楽流したら良いんじゃないって提案したの。僕の作った曲聴いていてくれたんでしょ?ほら、再生回数100を超えてるもん。」
「あ、そうだったかな。言われたかもしれない…。」
「嬉しいな。気に入ってくれたんだね。」
「あのデート、僕大失敗しちゃったからな…。」
「そうだ。また学校での色々な話を聞かせてよ。お茶でも出すから。あっちに移動して。」
「うん!」
君野はピアノの椅子から降り、彼が用意したクッションに座り、折り畳み机の上に手を置く。
「…。」
宮塚はその間に、君野のスマホの中の写真フォルダにあったおそらくデートの時であろう写真を全部消してしまった。
何回消しても、どうやら堀田が送った画像を会話の履歴から保存してるみたいだ。
この画像を、もう保存したくなくなると思うようにするには…
と宮塚は考えた。
そのスマホは返さずに、自分のポケットに入れてしまう。
「冷たいミルクココア好きだったよね。吉郎の好きなショートケーキもあるなら。食べていって。」
「ありがとう!」
彼の思惑など全く知らない君野はそう、にっこり笑った。
次の日
「…あれ?」
君野が自我の意識を取り戻した。
「え!?」
自分の手が鍵盤に置いてあった。
なんと、隣にはまた宮塚がいた。
昨日と同じ、一緒にあの宮塚の母のお下がりのピアノを不気味な部屋で弾いていたようだ。
一瞬、自分が見てる夢だと錯覚したが、そうではないようだ。
「え…?また…?」
「君野くん、どうしたの?」
隣には宮塚。
穏やかな顔でそう尋ねた。
「え?今日って…25日!?僕昨日もここに来てたよね?」
「うん。来てたよ。」
と、何も問題がないかのようにニッコリ笑う。
その時だった
ぽっぽーぽっぽー
ゴーンゴーン
「っ…!?」
君野は思わずその音たちに耳を塞ぐ。
暗がりの部屋で壁時計の音が響く。
振り子の時計鳩時計、
メルヘンな妖精がクラシックの音と共にダンスをする。
今日はなんだか、それ以外のおとなしい時計の色んな秒針の音までが耳に入ってくる。
「僕か、帰りたい…。」
「いいよ。帰りたいなら帰りな。」
「…ごめん。僕が勝手に来たのに…。」
「ううん。いいよ。またピアノを一緒に弾けて楽しかった。」
と、君野に帰りの切符代を渡す。
「あ、でも…。」
「いいんだよ。僕はいつでも待ってるから。」
「う、うん…。」
君野はその宮塚の言葉にあえて触れなかった。
あまりここに来たいとは思わないのだ。
彼を嫌いではないが、どうもこの部屋が怖いのだ。
「あ、これ。」
と、宮塚は君野の胸ポケットにスマホをいれる。
「無くさないようにね。お母さんからの着信入ってたから僕が電車で帰りますって言っておいたから。」
「あ、そんなお母さんと顔見知りだった?」
「うん。君野くんがこの部屋に通い始めてからちゃんと僕がかわりに返してあげてるし、お母さんも僕のこと認知してくれたみたいだから安心して。」
「うん…。」
宮塚はそう、屈んで君野の両腕の二の腕を掴んで撫でながら言う。
そもそも、何も言わずなんで僕のお母さんに勝手に返しちゃうんだ…
と、宮塚の勝手な行動に少し腑に落ちない様子。
「や、やっぱり僕1人で駅まで帰る…。」
「大丈夫?迷子にならない?」
「ならない!さよなら!」
と、君野は突然後ろの玄関をダッシュで開けて逃げるように宮塚の家を出た。
「はあ…はあ…はあ…!!」
しばらくがむしゃらに走って逃げる君野。
別に宮塚が追いかけてくるわけでもないのに、目に涙を溜めて走る。
もし次にあの鍵盤に手がのっていたら…と思うと怖いのだ。
ピロン
とスマホな音がする。
君野は途中疲れて走るのをやめ、その音に携帯を見た。
「気をつけて帰ってね…。」
宮塚だった。
丁寧に手作りの駅までの地図の画像が添付されている。
「失礼だったな…。」
そもそも、宮塚が何かしたってわけじゃない。
自分から行ったのに、自分が被害者ヅラしているのだ。
むしろ、彼は追い返さずに好意的だったのに。
君野はその宮塚の返信に
わざわざありがとう。おやすみなさい。
と、返信がもうこないように返した。
するとすぐに既読がつき、
宮塚の返事はスタンプ一つで返ってきてホッとした。
君野は結局駅までの帰り道をその手作りの地図を頼りに帰ることになった。
しかし、その8日後だった。
「…ひ!?」
君野はやはり宮塚の家にいた。
意識が戻ると自分の手が鍵盤に乗っていたのだ。
それに、まるでゴキブリが手に乗ってきたかのように驚いて、彼は後ろにひっくり返って椅子から床に背中から落ちた。
「あ、大丈夫?」
隣にはやはり宮塚。
彼の突然手足をばたつかせたのなら不思議そうに顔を覗く。
例のいろいろな時計と真っ暗なカーテンで光の入らない、打ちっぱなしのコンクリートの部屋だ。
年季の入ったピアノの前で彼と2人っきり。
「はあ…はあ…!なんで…!?なんでまたここに!?」
「吉郎が自分から来たからだよ。」
と、宮塚はニコッと笑う。
「僕ね思うんだけど、君野くんは僕のこと好きなんじゃない?」
「え?」
「じゃあなんでわざわざ歩いてここまでくるの?」
「わからない…。」
君野がだんだん泣きそうになる。
気を抜いていたのかな。
もう大丈夫だと思ったのに…。
宮塚は倒れたままの君野に手を差し伸べる。
君野がその手を取ると
「わっ!」
宮塚は君野が立ち上がるのを見計らい、そのまま彼をぎゅっと抱きしめた。
君野が怯えた顔で硬直していると、突然その頬を両手でがっつり掴み、熱を測った時のように顔をぐっと近づける。
お互いの鼻と鼻に息がかかる。
君野は宮塚の全く見えない心の奥底と、この行動の意味がなんなのかわからず彼の両腕を離してほしいと掴んでいる。
「だから、吉郎はまたここに来るよ。僕を愛しているからここに来るんだよ。」
まじないのように君野の耳に囁く。
君野の皮膚に鳥肌が立った。
ぽっぽーぽっぽー
ゴーンゴーン
と、次々と音が真上からけたたましく鳴る。
耳を塞ぎたい君野だったが、宮塚はその耳を頬から耳に移動させ、自分の手でカバーのようにし、塞げないようにする。
君野は目をキュッとシワが極限にできるまで瞑った。
「帰りたい…もう帰りたい…!」
「帰ればいいよ。僕は監禁なんかするつもりもないから。」
と、ニコニコと笑う。
「ぐすっ…。」
と、怖がる君野を尻目に宮塚はおもむろにピアノの前に向かって座った。
宮塚がピアノを始めたのは今年の5月だ。しかし今はもうどんなクラシックでも楽譜なしで聴けば弾けてしまう。
鍵盤に手を置いた瞬間、ショパンの幻想即興曲を弾き出す。
その表情は一変する。
彼の指が鍵盤に触れた瞬間、ショパンの幻想即興曲が部屋を支配し始めた。軽快で華やかな旋律が、まるで流れる水のように滑らかに流れ出す。その指先は驚くほどしなやかで、鍵盤を叩くというより、まるで風が草原を撫でるかのように、自然に音を紡ぎ出していた。
君野はその超絶技巧の演奏にただ圧倒され、泣いていたことも忘れ宮塚の背中を見つめていた。
まるで彼の表面上の穏やかさと、そして心の奥底に宿した何かが爆発しているような
そんな演奏が余韻を残し終わった。
宮塚は振り返りもせず、
背中でこう言う。
「…そういえば、堀田もなんでもできるでしょ。何故か、僕たちの家系にはたまに超人が生まれるんだ。だから、吉郎のおかげだよ。ピアノがこんなにも面白いものだなんて、僕は知らなかった。」
「僕のおかげ?」
「だから、君は僕を愛してるし、僕も君を愛してる。」
宮塚はそう言ってピアノの蓋を閉める。
「さ、帰ろうか。涙も止まったしね。」
と、君野の頭をぽんぽんと撫で、彼の手をぎゅっと握り
そのまま玄関へと送り出した。
続く。
今、サポートしたいと思いました? 偶然ですね。私もサポートされたいと思っていました。 いや、そう思ってくれるだけでも嬉しいです。ですがサポートしてくれたら寝る前にニヤニヤします。通知きた画面にニヤニヤしながら眠りにつきたいなんて贅沢なことしてみたいなんて思ってたりしませんよ多分…