第30話「彼からの手紙」
次の日
君野はまた、
目に見えておかしくなっていた。
「いやだぁ!いきたくないい!!!」
と、朝から教室で大声で叫び足を地面に何度も踏みつけて
イヤイヤと体操着に着替えるのを拒んでいる。
その光景にはまたかと
クラスメイトたちは呆れるが
堀田と桜谷は根気よく朝から君野を慰めていた。
「よしよし。大丈夫大丈夫。お前のペースでいいからな。」
堀田はそう言って君野を強く抱きしめ、
背中をトントンと優しく叩いている。
そうすると、君野も彼の腕の中でおとなしくなり、堀田の胸に頭をグリグリとドリルさせて甘え始める。
それがとても安心するようだ。
「おい甘えんぼ。それで着替えるのか?」
「やだ。僕このままでいる。一緒におはなししよ。」
「話したらちょっとはいうこと聞いてくれるのか?」
「うん!いっぱい言うこと聞く!!」
と、足をばたつかせて喜ぶ。
しかし、こうした異常は健忘症と同じで本人に自覚がないようだ。
その様子に、先生が体育はさせられないと大事を取り保健室に連れて行ってしまった。
廊下を歩き、体育館へ移動する桜谷と堀田。
堀田はそうした彼の異常行動について
桜谷に調べた結果を話し出した。
「幼児退行?」
彼女は目を見開いて堀田を見つめ返した。
昨日、すぐに調べたのか堀田は腕を組み、スラスラと説明する。
「精神が一時的に幼い頃の状態に戻る症状かもしれない。ストレスとか過去の記憶が原因で防御反応として出るとか。体操着に着替えたくないって言って泣きながら駄々をこねたりするのも、そのサインなのかもな。」
「じゃあ、どうしたら…」
桜谷が不安げに尋ねた。
堀田は一瞬考え込んだ後、ゆっくりと答えた。
「今は君野が安心できるように、無理に現実に引き戻そうとせず、気持ちに寄り添ってあげるのが一番いいかもしれない。たとえば、俺が少し強めに抱きしめたりして、大丈夫だって安心感を伝えるとか。焦らずに、ゆっくりとペースで落ち着かせてあげることが重要なんだとさ。けど…そんなに俺がお前に誕プレ渡したのがいけなかったのか?」
と、首を傾げる。
「…。」
違う。私の曖昧な態度が
君野くんをここまでさせてしまっている。
「桜谷さん、ちゅーして!」
昨日、君野くんと2人で帰っている時に
また幼児退行の症状が出た。
私の記憶を君野くんから消してしまえば
また正常に戻るのかもと思って、彼と誰もいない道路脇でキスをした。
「どう?」
「なんか…違う!」
と、最後の切り札に対しても
彼はそう首を横にブルブルと振って
眉を8の字にして答える。
「違うって何?」
「僕のこと好き?ならもっといっぱい!ちゅーして!」
と、声を張り上げて道路の片隅で桜谷の肩を両手で掴み、建物の壁に押しつける。
桜谷はそこで気丈に振る舞い、痛いと言うそぶりも見せずに微笑する。
「私は君野くんを愛してるわ。」
「あの天使の置物が大事なんでしょ…僕なんかみてないんでしょ…。僕なんか、僕なんか…。」
と、そのまま壁に貼り付けた桜谷にすがりついた。
「…まさか、呪いのキス効いてなかったの…?」
桜谷は目を見開いて驚く。
誕生日以来、
天使の置物の話はここ最近出ていない。
私が大事にしているかなんて、わかっているのは
私の部屋にきたことをまだ覚えてるから?
「君野くん、それ、私の部屋のどこにあったが覚えてる?」
「窓のところ…。お笑いみてるとき、桜谷さんがずっと見てた…。」
そうぐずりながら答える。
「…。」
桜谷はそのままに崩れるように
地面に膝をついた。
「そっか。効いてなかったんだ…。」
誕生日の時が効いたのは
きっと君野くんからだったからだ。彼は私を愛しているから効いたんだ。
そっか。そう言うことか…
呪いのキスは
私が彼を本気で愛していないと効かないんだ…。
となると、彼はもう1週間も前から
ずっとキスが効いていないことになる。
その末路が今ってこと?
キスがなきゃ、彼は壊れてしまうってこと…?
ぺたんと座り込んだ桜谷と同じく、君野も真似るようにその場に座り込む。
足の間に両手を置いて、子供のように桜谷の顔を上目遣いでまじまじと見ている。
桜谷はその場で体育座りをする。
その場に通り過ぎる人の視線など
気にする余裕もない。
「ごめんね…君野くん。私が間違ってた。」
「どうして謝るの?」
「あなたが嫌いになったわけじゃない。ただ、たまには蝶のように違う場所にも行ってみたかっただけなの…。」
君野はその言葉に、肘を曲げたまま、両手を羽のようにして動かし、真面目な顔で桜谷を見ている。
地面を見ていた桜谷はごくっと唾を飲み、顔を上げる。そして何か覚悟を決めたかのように、目の前の君野を見つめた。
「…大丈夫。明日からは君野くんは元に戻るのよ。ねえ、もう一度キスしましょ。」
大丈夫。呪いのキスは効く…
これは君野くんのために。愛する人のため…!
「う、うん!いっぱいちょうだい!好き!」
君野は嬉しそうだ。
その言葉通り、2人は再び唇を交わした。
しかし
今も彼は昨日の出来事を覚えているどころか、ますます状況は悪化していく。
それが今の体操着のだだこね事件だ。
効かなかったのだ。
桜谷はクールに振る舞いながらも
途方に暮れていた。
彼女はその後、他の女子たちがバレーで盛り上がる間も一人、体育館の床の溝を見つめボーッとしていた。
なんで呪いのキスが使えないのだろう。
それとも、もう効力がなくなった?
でも、君野くんの心の病は私にある。
私からの愛情に飢えている。
私の気持ちが一回離れたらダメなの?
それで、私が本気になってキスしたいと思ったらまた全て白紙になる。
彼を健忘症にした罰なのはわかるけど
重すぎる。
これ、神様は一生私に償わせる気なのかな…
ガシャン!
と、心の中で天使の置物がぐちゃぐちゃに割れる音がした。
アレを捨てる覚悟がなければ…
悪魔が天使を破壊しなければ
ずっと、彼は壊れたままだ。
「キャ!」
桜谷がそう考え込んでいるとボールが自分の元へ飛んできた。
なんとか反射で手を添えるが、指先にボールを被弾させてしまった。
「痛っ…。」
割れた爪が肉を突き刺し血が出ている。
「大丈夫?保健室行く?」
優しい体育委員が駆け寄ってきて声を掛けてくれた。
幸い指先に血が少しついただけで大事には至らない。
授業も終盤で、そのまま列に並び何事もなかったかのように体育を終える。
そして爪を切るために足早に一人教室に向かうと
君野くんがいた。
「あ、先に戻ってたの?」
保健室から戻され、今はおとなしく一人ぼっちで自分の席に座っている。
「うん…。あ、ねえ。」
「なあに?」
「ごめんね。奇行ばかり多くて。全然覚えてなくて…。」
「ううん。君野くんは私のこと好きなのよね。」
「う、うん…好きだよ。」
「どうしてそう思うの?誕生日からの記憶の中で、私はあなたの愛に応えられてた?」
「…。」
彼は黙り込む。
「じゃあなんで好きなの?」
「強くそう思うんだ。あと、これ言っていいか…なんか好きにならないと、いけないみたいなのある…。」
と、下を向いて答えた。
「わからないんだ。まるで誰かに催眠術をかけられたみたいに気持ちがそうかかると言うか…。僕が奇行をしてるあいだ、桜谷さんに愛情を求めているんでしょ?それが、僕のこの、駆られる気持ちから来てるのかなって。でも本当に、その原点がわからない…。」
その言葉に桜谷は口をむぐむぐと動かした後、
話し出した。
「君野くん、私とあなたは昔恋人同士だったの。健忘症になる事故前の話よ。小学生の頃私、君野くんと同じ小学校に通ってた。でも転勤族の私はたった3ヶ月で転校してしまった。そして中学生になって再会したけど、君野くんは私を覚えてないって言った。」
「そうなんだ…。」
「ねえ、健忘症になった事故が私のせいだって知ったら、君野くんはそれでも私のこと好き?」
「え?」
君野は驚いて顔をあげた。
桜谷は爪切りを文房具入れから出し
ティッシュを広げた。
「怪我したの?」
切れた爪の赤さに彼が驚く。
「たいしたことないわ。…私君野くんに忘れられたことすごくショックで、それにサッカーで私を相手にしてくれないあなたに焦ってた。」
「…。」
「君野くんが部活で怪我したとき、介抱できたのが嬉しくてずっとこのままがいいって思ってた。その矢先、君野くんはサッカーに戻ると言って私とはもう付き合う気はないって…。どうしても繋ぎ止めたくて君野くんを、ベッドの下に閉じ込めた。あの私の部屋のベッドの下は、その小学生の時の私たちの遊び場だったから。そこで君野くんはキスしてくれ…」
と、君野の方を向いたときだった。
「え?」
桜谷は驚く。
君野が泣いていた。
その様子に、幼児退行?と警戒したが
焦点の合わない目から静かにすすり泣く君野に違和感を感じた。
「なんで泣いてるの?」
「わからない。なんか…それ聞いたらすごくごめんねって気持ちが溢れたんだ…。後悔というか、なんでそうしちゃったんだろうって…。」
「…。」
桜谷は爪に爪切りの刃を挟んだまま、その言葉にとらわれている。
「それって…つまり…。」
君野くんはサッカーをとったのを後悔してる?
後悔してるってことはまさか…
私を覚えてた、とか?
いや、希望的観測すぎる…
そんなわけない。
「あなたを無理やり思い出のベッドの下に閉じ込めた。恋人同士だったの思い出してくれるかもって…。でもパニックになった閉所恐怖症の君野くんが部屋から脱出してガラステーブルに落ちた。これを聞いても後悔してるなんて言うの?」
「愛されたいよ…。」
と、彼は途端に子供っぽく言う。
桜谷は察して、もうこれ以上過去を掘り返すのをやめた。
ちょうど戻ってきた堀田にあやされた彼は
全力でその幼児退行をぶつけ、また彼の胸に頭でドリルをし、全力で甘え倒していた。
桜谷は爪を切り終わり、着替えをするためにトイレへ。
「…。」
個室に入ると着替えを抱えたままため息をついた。
「どうして怒らないの…。」
普通なら怒る場面だった。
せっかくの、彼の輝かしい人生を奪ったんだもの。
きっともう怒ることもできない。
私がずっと記憶を消し続けてきたから…
だから。私に依存しているんだ。
後悔がある…なんて
今の君野くんが正常な判断で言ったのかは謎。
依存故の発言なのかもしれない…
このままなら底なし沼に沈む一方だ。
本当にそれで、いいのだろうか。
一体何が正解?私はどうしたら?
「誰が幸せになれる?それとも…誰も?」
君野くんはその後、朝の異常な様子を鑑みた担任が責任が持てないと、早退させることになった。
そして、1人トボトボと家へ帰った桜谷。
そのポストを開けると、なにか子供っぽい封筒が入っていた。
「ん?」
そこには可愛らしい封筒が。
それを見ると
この手紙は料金が不足していると
その張り紙がされたまま投函されていた。
だが、切手はしっかり貼られている。
ちゃんと郵便局を通過したスタンプがついている。日付は最近だ。
「るりこちゃんへ…?」
鉛筆書きでひらがな。いたずら?
どこの子供が送ってきたのだろう…
部屋に戻り、バッグを机の隣に置くと
それを開封した。
「え…?」
その内容を見て桜谷の瞳は揺れた。
公園らしきブランコと滑り台の特徴的な形の背景に
2人の糸人間が、世を知らない純粋な子供の絵で描かれている。
そしてその2人の中央には
逆三角の形の花束。
「ずっと、だいすきだよ、てんこうするなんてかなしい…」
差出人は誰?
…君野くん?
自分の部屋でキョロキョロと見渡す動作をする桜谷は、興奮を隠しきれない様子でとりあえず動いた。
収納棚をなんとなく開けて閉めて、
脳みそをフル回転させる。
どう言うこと?
とまた手紙を見る。
幼少期、公園で君野くんから
花束をもらったことなんか誰にも話してない。
張り付いた郵便局の料金不足を告げる紙は
少し赤く薄汚れている。
経年劣化を感じさせる。なのに切手は妙に新しい。
君野くんがこれを家で見つけて数日前に投函したってこと?
でも、彼はそんなこと一言も言ってなかったし、過去を覚えてるなんてそんな事なさそうだった。
「…じゃあ!」
幼児退行してるのって
幼少期の彼からのメッセージ…?
「彼が、私に会いたがってる…?」
と思った瞬間
全身がブワッと一瞬強い吹いたよう
風向きが、変わった。
桜谷は途端に手紙を愛おしそうに見つめる。
震える手で、紙の質感を堪能する。ほんのりと香る紙の匂いが、彼女の心を一気に過去に引き戻す。不思議、温かみを感じる。
-ずっとすきだよ-
その一行が目に入った瞬間、桜谷は息を呑み、胸が締めつけられるのを感じた。
ばさっ
と、ベッドに倒れ込む。
両腕を天に掲げ、握った手紙をじっと見つめる。
涙がこぼれそうになり、慌てて目をこすった。
彼は生きている!
無意識のうちに手紙を胸に抱きしめる。あまりにも嬉しくて、思わず笑顔を浮かべてしまう自分が、少し怖い気もした。
しかし
またもう一度内容を確認すると
そのつたない文字に夢中で気づかなかったが
その下に斜めの走り書きで
-桜谷さんを救いたい-
と走り書きがあった。
「これは…?」
指でその文字をなぞる
これは、今の君野くんの文字だ。
じゃあ、この手紙は…やっぱり彼なんだ。
「救いたい…?」
どう言うこと…?
桜谷はその手紙を見つめ
その2人からのメッセージに頭を抱える。
しかし、桜谷の結論は固まってきている。
都合の良い考えは、彼女の血液にまで流れ生き返ったようだ。
明日、彼に何をするかを考えるだけで
久しぶりワクワクしている。
「儀式をするの…。」
彼をここに呼ぶ。
呪いのキスが効きそうな気がする。
と、桜谷は悩んでいたのが嘘のように
イキイキと不気味に笑う。
しかし、その右目からは一粒の涙が流れ、寝転がるシーツに落ちた。
これは救いの涙なのか
それとも
諦めの涙なのか
手紙を持ち上げたまま
なぜ流れるのかわからない涙を拭った。
続く。