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何でも話していた、いじめられていること以外は

何でも話していた、いじめられていること以外は
何でも話していた、死にたいということ以外は
話さないということは、知られたくないということ
あの日、彼女は見てしまった
罵倒され、蹴られ、笑いながら髪の毛を引っ張られている惨めな私の姿を
クラスも学年も関係なく、取り囲まれ、下級生にまでいじめられている私の姿を
彼女の顔に浮かんだ驚きの表情
隠していたことを一番知られたくなかった人に、知られてしまった
彼女の怯えたまなざしから目を背けた先の、地面に這いつくばった自分の汚れた手とその土の感触
今でも鮮明に
もう決して、知られる前には戻れない 変わってしまう
それが、何よりも私を打ちのめした
何でも話せると言っておきながら、彼女に隠し事をしていたという事実
あの人達にされたことなんてどうでもいいと思えるくらい
彼女に対する恥ずかしさと罪悪感で心が張り裂けてしまいそうだった
クラスが違うから、いちいち約束をしたことはなかった でも自然といつも一緒に帰っていて
あの日、私は彼女に合わせる顔がなくて、彼女に会いたくなくて
放課後、最後まで教室に残っていた
一人で帰るつもりだった
校庭から聞こえてくる声が一つもなくなって、ようやく私は帰る支度を始めた
静まり返った教室を出て、誰ともすれ違うことのない廊下を進む
下駄箱で靴を変え、歩いていくとそこに、彼女はそこにいつもと同じようにいて、私を待っていた
「帰ろう」と微笑んで、彼女が歩き始める
私は返事も出来ずに、彼女の靴のかかとを見つめて、ただ後についていく
帰り道、彼女はその日見た光景のことについて、一言も触れなかった
触れられなかったのかもしれない
何か話さなければ 何でもいい、それ以外のことを
私達のいつも通りを装った会話は、間違って核心に触れてしまわないようにと慎重に進められた
言葉と言葉の間に生まれる空白の時間が、いつもよりきっと0.0何秒か長くて
精一杯の「いつも通り」が余計にお互いの間にある空気を張り詰めさせていた
その異様な緊張感はまるで、一歩足を踏み出すのに全神経を集中させなければいけない、地雷原を歩く兵士達のようで
昨日のテレビ番組の話、体育の話、給食の話、すぐに途切れてしまうぎこちない会話を幾つかやりとりした後、二人ともそれきり口を噤んだまま歩いた
しばらくすると十字路が見えてくる
彼女はそのまま真っ直ぐの道へ、私は左に折れた道へ
いつもなら分かれ道の所で足を止めて、そこで短くても十分、長い時には一時間近くおしゃべりをしてから、「じゃあね」と手を振りあって別れる
あの日は、お互いとっくにもう話題は尽きていたから、すぐに別れるだろうと思っていた
もうすぐこの緊張感から解放されると、少し心が緩んだ 彼女もきっとそうだろうと思った
分かれ道に近づくにつれ、少しずつ彼女の歩くスピードが遅くなっていって、ついに足が止まった
けれど彼女は何も言わない
私の進行方向を塞ぐようにして体は私に向けていながらも、顔を深く俯けて、目が合うのを避けているような気配があった
彼女は黙り込んだまま塀に片手をついて、石のブロックの角をつま先で何度も蹴り続けている
鈍感なふりをして「じゃあね」と何気ない風に挨拶を済ませ、そそくさと逃げ去るにはもうタイミングが遅すぎて
私はどうしていいか分からず、ほとんど思考停止状態のぼやけた視界の中で、彼女がブロックを蹴り続けるのをただじっと見つめていることしか出来なかった
そんな私とは対照的に、彼女は言うべき言葉を懸命に探しているようだった
何を言われるのか、想像するのも怖かった
不意に彼女が大きく息を吸い込む音が聞こえて、咄嗟に私は身体を固くして身構えた
彼女は一瞬何かを言いかけて口を噤み、そしてその言葉を喉の奥に飲み込んだ
俯いて塀の窪みをなぞる自分の指先をじっと眺め、それからもう一度ゴクッと唾を飲んだ
私を傷つけずに済む言葉は見つからなかったのかもしれない
私はただ息を詰めて、時間が過ぎ去るのを待つしかなかった
暫しの沈黙の後、彼女は目を伏せたまま、気まずい空気を控えめに払うような声で
「今日はこっちから帰る」とだけ小さく言って、そっと私の手を取り、いつもとは違う道を、遠回りになってしまう方の道を、ゆっくりと歩き出した
彼女の半歩後ろを、手をひかれるようにして私はついていく
その間も彼女はなんとか言葉を絞り出そうとしているようで
ちらっと盗み見た横顔は、私なんかよりずっと辛そうに見えた
ただただ申し訳なくて、でも胸がいっぱいで、声を出すことが出来なかった
必死に涙を堪えていることに気づかれていただろうか
彼女は一度も私の顔を振り返らなかった
なんとなくだけれど、静かに前だけを見つめていようと心に決めているみたいな歩き方だった
彼女は一瞬俯きかけた自分の顔を、無理に目の前の夕暮れの空へ向かせたような気がした
私は相変わらず何も言えないまま、ただ彼女についていくことしか出来なかった
その先の分かれ道でも、彼女は私の手を放さずに無言で私と同じ方向を選んだ
二人とも何も言えずに、言葉は声にならないままに、歩みだけが着実に
ランドセルが軋み、金具のカチャカチャと鳴る音がいつもより大きく耳に響く
私は自分の中に渦巻いている感情とも言えない何かをどうにかして形にするべきなのか、それとも押し込めるべきなのか、一歩踏みしめるごとに心は揺れ動き、ぐずぐずと思い切ることが出来ずにいた
けれど結局、答えは出せずに何も言葉を交わさないまま家に着いてしまった
私の家の前まで来ると、彼女は振り返り、ついに私の目を見た
私も彼女の目を見た
私だけが、目を逸らした
彼女は微笑んでいた きっと見間違いじゃなくて、たぶん、微笑んでいて、
「じゃ、また明日ね」と柔らかな声が聞こえた
私は俯いたままうなずいて、声が震えないよう小さく「うん」とだけ答えた
手を繋いで、一緒に歩いた帰り道
あの空に浮かんでいた雲の形を、彼女が唾を飲み込んだ音を、握られた手の感触を、全部、憶えている
あの日、私は救われたわけではなかった
だから次の日も、その次の日も、ずっと、いつも通り、私はいじめられ続けた
約束通り、彼女は次の日も一緒に帰ってくれた
その次の日も、その次の日も
それで十分だった 私には十分だった
私は、救われたわけではなかった
けれど、人生において辛い時にはなぜか必ずあの情景が浮かぶ
怯える私に精一杯寄り添ってくれたあの優しさを何度も思い返す
本当は、彼女に「ごめんね」と言いたかった
なのに言えなかった
謝ることなんて、幾度となくしてきたはずなのに
どれだけ理不尽なことでも、自分が少しも悪くないとわかっていても、頭を下げるしかなかったから
地面にひれ伏し、小さく体を折り曲げ、土下座した
強要してくる相手の気が済むまでいくらでも、何度だって「すみませんでした」と言えた
言いたくなくても言えたのに
なのに、あの日は言えなかった どうしてか言えなかった
言いたかった
でも、なんだか言ってはいけないような気もして
迷ったまま、答えを出せぬまま
もしあの時、言っていたとしたら、そしたらなんと言ってくれたのだろう
でもやっぱり、余計に困らせてしまうだけだったかな
言えなくてよかったのかもしれない
今でも時々、思い返してしまう
たぶん、ほんの三十数分程度の短い時間
この人生において、数え切れないほど何度も思い出して
あの時、私達は同じ空を見つめていた 同じ足音を響かせ、同じ道を歩いていた
辛い一日の、あの帰り道
胸を強く締め付けられる 苦しくて、切なくて
でも、忘れたくない
どうしてだろう
この惨めな人生を、あの記憶に縋って、生き延びてきたのだ

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