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目を閉じさえすれば 真夜中を闊歩するひきこもり

靴紐のある靴を履きたい
昔はいちいち靴紐を結ぶのが面倒だと思っていたけれど、「靴紐を結ぶ」ということは、
これからその靴を履いてどこかに行けるということ 歩いていけるということ
ぎゅっと靴紐を結んで「行ってきます」と、もう一度言ってみたい
目的地なんてなくて、誰かと会う約束なんてなくて
それでもただひとりで、もう一度歩いてみたい
綺麗な空を見上げ、風を感じて、足が疲れるまで、痛くなるまで
行けるところまで歩いてゆきたい
あの大きな橋の長い坂道が嫌いだった 車の排気ガスの息苦しさが嫌いだった
けれど、今となってはその不快だった一つ一つさえも、思い出すと切なさで胸が一杯になってしまう
足の親指に力を入れて地面を踏みしめ、坂を上っていくあの感覚
車の多い大通りに充満した排気ガスを肺一杯に吸い込みたい
日常というものが、こんなにも特別だったんだということを思い知っている
きっと今、昔に戻れたなら
鞄に荷物を詰めたり、どこかで信号待ちをしたり
そういう、なんてことのない動作にも喜びを感じられる
歩く自分の靴音を聞けるということは、この上なく幸せなことだった
閉塞感で押し潰されそうになった時
目を閉じさえすれば、私はあの夜の誰もいない道の上に立っている
冷たく澄んだ空気は切なくて、寂しくて、ノスタルジックな匂いがする
通りには柔らかな月光に照らされ、静かに眠る家並みが続いていて
深夜の静寂が心地よく私の胸を締めつける
耳を澄ますと、歩き出した靴音の響きが聞こえてくる
路面を鳴らす一定のリズム
急いではいない 焦ってもいない
何かに追われるわけでなく、逃げるわけでもなく、のんびりと
一人きりで歩いていく
なんて気持ちがいいんだろう
真夜中の暗がりにいると、不思議な深い喜びがひたひたと満ちてくる
夜空を見上げれば、一面に星が煌めいていて
その魅惑的な光を全身に浴びた時、うっとりするような自由を胸の内に感じ取れるのだ
孤独を静かに噛み締めることで、自分がどこまでも自由であると実感する
風に揺れる干しっぱなしの洗濯物でさえ、美しく見える
文字が消えかかった錆びだらけの看板にさえ、胸を打たれてしまう
枯れた植木鉢、履き捨てられた片方だけのサンダル、ひび割れたコンクリートの駐車場
何もかもがひっそりと佇んで
夜、密やかな夜 町は昼間の太陽の下で見るよりもなぜか優しく感じられる
住人の意識から解放された無意識の町をひとり占めにする
どこへ行こう どこまで行けるだろう
自分の足音だけが響く夜道をどこまでも進んでいく
目を閉じさえすれば、深い夜の底に立っている
生きていた自分に戻れる
遠い月を眺めていた、あの時の私
小さな部屋の中でただ、もう一度あの道を歩くことを夢見ている

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