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冬の紫陽花と自殺志願者

結露した窓ガラスの表面に人差し指で線を引く
水滴と水滴が結合して、小さく揺れる
一瞬の後、その粒は自身の重みに耐えきれずに線の終端からあっけなく流れ落ちていった
その時なぜか頭に思い浮かんだのは、崖の縁にぶら下がっていた人間がついに限界を迎え、しがみついていた手を離した瞬間の力ない微笑み
一粒の変化が、保っていた均衡を連鎖的に崩して幾筋もの跡を残し、滴り落ちてゆく
水滴が通った部分だけが曇ったガラスを透明にして、窓の外の細切れな風景を見せた
新鮮な空気を感じたくて、窓を開け、身を乗り出すようにして近くの家々を眺める
どの家も明かりはついていない
空は一面厚い雲に覆われ、月も星も見えない
しんしんと降る雪はどれも灰色をしていた
数時間後には、積もっていくこの灰色を朝陽が眩しいほど白く輝かせて
出来ることならずっと、暗いまま 淡々と密やかなままで
無意識にそう願ってしまう
冷たい粒が頬をかすめた
急に強い風が吹きつけ、部屋の中に雪が舞い込む
庭の隅にある、冬枯れした紫陽花
避けようもなく厳しい風雪に晒されている
初夏の瑞々しい美しさの面影は消え失せ、朽ちて変わり果てた姿
思い出す
初めて紫陽花は散らない花なのだと知ったその時の衝撃
もう何年も前のあの冬の日、テニスコートの脇に佇んでいた紫陽花は言葉を失うほど美しく、強く
丸い形を残したまま茶色く褪せ、かさかさに乾いて
決して華やかでなくとも美しいと感じさせるのは
満身創痍のなかであっても、あくまで凛として立っているその揺るぎない芯の通った姿だった
圧倒され、心が打ち震えた
薄く透け、かろうじて葉脈だけを残した萼はまるで、遥か遠い昔、遠い国の誰かが丁寧に編み上げた古いレースのようで
その「花びら」に見える何枚ものレースの重なりは、触れればその瞬間に粉々になってしまいそうなほど脆く
蜘蛛の巣が絡まり、虫の死骸がぶら下がって
その無残
けれど、色彩を奪われ、潤いを奪われ、失っても失っても、それでも残り続ける凄みがある
散らないでいることの気迫のような、内に秘められた生命力の存在感
どんなに痛ましい姿になったとしても、冬を越してまた梅雨の季節が来れば
滴る雨粒を輝かせ、生き生きとした花を咲かせる
今は枯れ色だとしても、その先には鮮やかな希望が待っていることを象徴しているようで
だからこそ、その瞬間にある衝撃的な無残さが際立って、言いようもなく美しかった
けれど今見るそれは、この上なく薄汚い
厳しく冷え込む冬の夜
紫陽花は痛々しくただ耐えている
横からの風に煽られ、ギシギシと軋む枝は簡単に折れてしまいそうで
けれども実際には折れることなく、かと言ってしなることもなく、真っ直ぐに立ち続ける
その気高い姿は、下を向いてうなだれるように萎れるよりもっと、ずっと強く悲壮感を浮き彫りにしていた
ただそこに静かに佇んでいる
それは散らない花
とうに干からびているという現実を受け入れられずに、
自分で拵えた虚構の世界に頑なにしがみつき続けているだけではないか
ゴミほどの価値もないプライドを捨てきれないがために、身動きが取れずにいる陳腐な人間のように
意地を張っているだけではないか 誰からも相手になどされていないのに
未練を断ち切れないだけではないか 無価値だと気付いているのに
散るのが怖いだけではないか 枯れていることしか出来ないくせに
社会から取り残され、暗く狭い部屋に気高く引きこもる自殺志願者
死に切れないでいるみっともない自分自身に重ねてしまう
私こそが、しぶとく薄汚い絶望の花を咲かせ続けていた
それは散れない花
これだけ追い詰められても散ることが許されぬ罰のようにも見える
無様な姿を晒し続けるしかない、ただ冬の寒さの中に置き去りにされた絶望の象徴に成り果ててしまった
今私は、遠いあの冬の日と同じはずのその姿に、潔く散れぬ情けなさを感じ取るのだ
そんな風に見えて、もうそんな風にしか見えなくて
無残 ただただ無残
大きく息を吸い込む 肺に凍えるような空気が満ちる
それとともに、心には冷え切った哀しみが沁みてくる
色彩を失くし、潤いを失った心が見せる景色はどれも恐ろしく、悲しい
この枯れた心は目に映るものすべてを、何もかもを、
どんよりと陰気に変えて

灰色の雪が降る夜
絶望の花が咲いている

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