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レベル・ミュージック

俺が意識的にジャマイカの音楽を聴き始めたのは1979年の夏、ロンドンのレコーディング、ライブツアーから帰ってからだった。

音楽的構造物を分解し再構築するダブ、その上に自分のメッセージをのせて新たな音楽として近隣の住民やオーディエンスに届けるDJスタイルなど、彼等は様々な音楽活用法を実現し生活にとりいれており、その一つ一つが斬新だった。

レゲエを聴き漁った。といっても彼らの音楽をそのまま模倣することはなく、彼等が独自のスタイルを獲得するに至った道筋、その歴史に興味をひかれた。

それにひきかえ俺達はどうなんだ?

痛切な悔しさが切実なものに思えてきた。

戦後、GHQの敷いた路線のままにウエスタン・カーニバルを通じて西洋の音楽を享受し、ただそれを消費することで良しとしてきた俺達はいったい何者なのか?そう自問する日々を過ごすようになっていたのだ。

能天気な俺ときたらウエスタン・カーニバルのウエスタンがカントリー&ウエスタンのそれだ、そうながらく思い込まされていたんだからお笑い草だよね。

それが「欧化」の意味であり、GHQが音楽を通して日本人の感性をコントロールしようとしてきた壮大な実験だった、それに気づくのはだいぶ後になってからだった。

GHQは歌舞伎座を弾圧し「忠臣蔵」のような仇討ちを軸とした演目を封印し、そうしたものの代わりにエンターテイメント「ウエスタン・カーニバル」を提供した。いまやそれは多くの文献資料、証言などにより明らかにされている。

それにまんまと乗せられたのが俺の世代。

俺なんて、知らなかったとはいえ、ウエスタン・カーニバルの系統をひくロックンロール・カーニバルに出演すらしている。なんてことだ!

ここで、GHQとウエスタン・カーニバルについて触れたのでその対抗勢力についても触れておく。

それは、歌声喫茶を中心にひろまったコーラス・ブームだ。

主に学生、労働組合などを中心にひろがりを見せ、俺がガキの頃も数件の店舗が実際に営業していた。こちらには冷戦の一方の極、ソ連が背後におり、GHQとの若者獲得競争に励んでいたとされる。

ただし新宿西口のフォークゲリラ、60年代後期のフォークブームとコーラス・ブームには濃厚な関係はない。この辺りお間違えなきよう。

で、俺がジャマイカの音楽に触発され、その結果として、日本の伝統芸能、とりわけ日本中世以降の文芸や芸術論に曳かれていく、その経緯は乱暴に言えば以上のようなものだったのだ。

俺は中世ヨーロッパの流行性舞踏病を追いかけていて日本近世の舞踏病にぶつかった。そして徳川幕府が発した数多くの歌舞音曲禁止令を見つけた。為政者が河原者、歌舞音曲の輩をいかに恐れているのか、それを改めて思い知らされたのだ。

全てはロンドン路地裏で見かけたポータブル・プレーヤーを囲む人々から始まっている。

この流れの中、最初に制作されたのがセカンド・アルバム「バビロン ロッカー」であり、以降の作品もこの流れのうえにある。俺自身はそう自覚している。

俺は、路地裏のレベル・ロッカー、河原者でありたい。いまもそう願っている。


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