東京ロッカーズ異聞 拾遺 その参~その伍
拾遺 その参「河原者志願」
ジャン・ジャックは別れ際にあることを提案した。
「モモヨ達のいる状況はなかなか難しそうだから、何とかしてサーキットルートを組むことを考えてみちゃどうだい?」
「サーキット?」
そのことは何度かジャンから提案されていた。一度に500人1000人を相手にするのでなく50人100人を相手にしてそれを繰り返すのだ。
今でもそんなに大きなライブハウスをまわっているわけではないし声がかかれば新しい場所には行かせてもらっている。だが、真剣にライブハウスやライブ可能なスペースを拾い上げてみたわけではない。「500人の客全員にメッセージを伝えるのは困難だが50人になら伝えられる」
ジャンはそう言うのである。
「丁寧にメッセージを伝えるんだ。おれみたいな外人にだって伝わるんだ。ダイジョブ」
そんな言葉を残して彼は帰っていった。
はっきり言ってツアールートの開発に他のバンドはあてにならなかった。当たり前にありそうなものがその実存在しなかったみたいな感じ。とりあえず地図を買ってくるしかない。
そして、それを実現したのが1980年2月22日からの一ヶ月間。
日比谷公会堂の「アジアの鼓動」を皮切りに23日千葉ダンシングマザース、3月に入って前橋ガルシア、3月16日金沢、17日富山、20日豊橋市公開堂、21日岐阜キャスパー、22日名古屋今池芸音劇場、23日浜松キッドハウス、26日京都サーカス&サーカス、(続いて)27日京都共和村、28日大阪ルート4/4、29日神戸ヤマハ元町ホール、30日岡山市民文化ホール、といった具合。このスケジュールからも北関東から北陸が未開拓なのがみえみえだった。このサーキットの経路上であってもスケジュールの都合でライブ組めなかったところもあった。当時の定番ライブハウスで言えば長野の仏陀だ。他にも普段小さなイベントを開催しているホールのようなところもある。松本など、市民活動が活発である地域には絶対そういう場所があるはずだった。
PAならある。何もないスペースでもライブはできる。
西日本のライブ可能なスポットの洗い出しは京大西部講堂連絡協議会に顔を出すようになっていたダスターにお願いした。神戸でスナックを営んでいたはずがいつの間にか京都に流れてきていた謎の男だ。(今は故人。 合掌) 彼、ダスターの人脈で笠岡市でカブトガニの養殖をしている人々を紹介してもらった。
夜、山上の市民センターのような場所でライブを行い、翌日の午前中にカブトガニの見学をさせてもらったりもした。以降、山陽道のスポット洗い出しが進み、それまで大阪南港からフェリーで北九州まわりで行っていた福岡へ陸路で行くようになった。
さらに、倉敷の友人のところで身体を休め山越えで鳥取へぬけるルートを見つけた。
山陰はいまだ鳥取のみ。四国と本州をつなぐ橋はまだなかったからだ。
だが、じわりじわりとサーキットの範囲はひろがっていった。
拾遺 その肆 「鋼鉄都市破壊指令」
いや、先走りすぎたようだ。話を前年の暮に戻そう。
1979年12月9日、ラフォーレ原宿にてテレビ番組収録。
競演→プラスティックス、ARB、81/2、ヒカシュー、P-MODEL、近田春夫&ビーフ etc。
その後、ストラングラーズとのツアーをはさんで1979年12月31日のラフォーレ原宿「HELLO '80 All Night Rockin Party」。
競演→松村雄策、ARB、平山美紀、P-MODEL、スペース・サーカスガールズ 他。
明くる新年、1980年は、1月3日、1月4日の新宿ロフト2デイズ「Change! 1980 NEW YEARS 2days SPECIAL!」から始まった。
1日目は「80年にスパークするモダン・ガールズ」と題し、ボーイズ・ボーイズ、ノン・バンド、水玉消防団、ゼルダ、バナナリアンズ等が出演。女性バンドもしくは女性メンバーがいるバンドが出演した。この日、俺は裏方。リザードは出演していない。
一方、4日の「鋼鉄都市破壊指令0104」はタイトルの通りリザードがメイン。競演はヒゴくんの新しいバンド、そして突然段ボール、それに加えて、後にノンバンドのドラマーになる玉垣くんと高木完ちゃんのSOB STUFFなるバンドが出演した。そしていつものフィルム上映、という感じだ。
この日からロフトでのGIGには「鋼鉄都市破壊指令」というタイトルが附せられる。
実はこの2デイズ、来る4月17日にロフトのスタッフが企画してくれているリザード初のホールにおけるコンサート「鋼鉄都市破壊指令0417」、その助走開始を告げるGIGでもあった。3月一杯の長期にわたるツアーの果てにその総決算としてのコンサートが待っている、そんなカタチだ。
2月3日「鋼鉄都市破壊指令0203」がホール・コンサートを予告するGIG。それに続く2月22日が日比谷公会堂の「アジアの鼓動」。明くる2月23日、千葉ダンシング・マザーズをかわきりに例のツアー。
これが終われば中野公会堂での「鋼鉄都市破壊指令0417」、リザード発のホールでのコンサートだ。主催者はロフト。
普段の狭いステージでは実現できない手の込んだ演出が用意されており、サポートもロフト店員が結成したバナナリアンズ、そしてARBがつとめてくれた。
結果、700名をこえる観客が来てくれ、その数字に俺もスタッフも安堵したものだった。
このロフト企画のコンサートには明確な目的があった。去年秋口から、収客のために椅子を撤去、オールスタンディングが日常化していた次第だが、それでも客をさばききれず、リザードのGIGにおいては失神者が出て救急車を呼ぶような事態にすら至っていた。 そのための打開策をあれこれ模索していたのだ。
もっとも、オープンな環境、例えば日比谷野音ですら失神してしまう客はいるのだから、ロフトの狭さばかりが原因ではなかろうが、俺達ステージ上の人間すら空気の悪さに口をパクパクする始末なのだから問題は問題なわけだ。人はできるだけいい環境の元でいい音楽をプレイしたり聴いたりするべきなのだ。
幸い中野公会堂では失神者は出なかったし救急車も呼ばずにすんだ。ただスタッフの話では客席で上半身はだかになっていた女性がいたとのことで、バンドのメンバーも目撃していたようだが、残念なことに俺は視認していない。ステージに立つとまわりが見えなくなるんだよ、俺。
拾遺 その伍 「浅草六区、そしてミーシャ」
中野公会堂のコンサートの4日後、4月21日。リザード2ndシングル「浅草六区/ミーシャ」をリリース。
レコーディングはこれに先立つ2月前半、音羽にあるキング のスタジオで行われた。オーケストラのレコーディングもできる大きなスタジオで、倉庫に蔵した和洋様々な楽器を自由に使っていいとのことだ。
そうしたことを当日になって知ったわけだが俺にとってはまるでオモチャ箱、宝の山だ。和太鼓もあるし本物のチェレスタもある。アレンジを組み直さなければならないがそんなことは苦にならない。そもそも今日録音するはずの「浅草六区」だって「ロッククリティック」から新たに歌詞を書き直したものだ。
和太鼓(大太鼓)は「浅草六区」イントロのバスドラに代えて使い、チェレスタは「ミーシャ」のリフレインに使わせてもらった。リザードはシンセでも似たような系統の音を多用しているが、可愛い鉄琴のような音のリフレインがチェレスタだ。他にもキングのスタジオでなければ録音できないギミックが沢山。
またほぼ時を同じくしてNHKのFM局スタジオでのライブ。「Before After London Experience ~LIVE 1979-1980~」のA面に収録された全8トラックはこの日のライブだ。
「浅草六区/ミーシャ」浅草六区については説明するまでもないけどミーシャについてはね、1980年ソビエト連邦時代の出来事なので若い人にはピンとこないかも知れない。そんな場合「こぐまのミーシャ」「アフガン侵攻」「アフガン戦争」というキーワードで検索をかければすぐわかるよ。
了
この先、俺の周辺は、事件、事故の連続でファンの皆さんにも大迷惑をかけてしまうわけだが、その顛末については、現在撮影中の映画「ストリート・キングダム」の完成を待って、その作中で語ってもらうことにする。
とりあえず1980年の出来事はこの辺りで。
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