見出し画像

第59回文藝賞受賞作(安堂ホセ『ジャクソンひとり』、日比野コレコ『ビューティフルからビューティフルへ』)

日比野コレコ『ビューティフルからビューティフルへ』、小中学生の作文、SNSで垂れ流されるポエムと同じ(か、それより水準が低い)、この小説モドキに文藝賞の関係者だろう大人たちが揃って拍手を送る光景はグロテスクで、見ていられない。「エモーショナルで乱脈な文体」、「日本語ラップのリリックのような鮮やかなパンチライン」、物は言いよう、ということか。

書き出し、《今まで知らなかったのだが、堕胎のホームページは、整形のホームページと似ている。》――この最初の一文だけで作者に小説の才能はないと分かる。「今まで知らなかったのだが、」という前置きが空回りしている、これはナナの視点ではなく作者の視点からぽろりと出た言葉だ。「堕胎のホームページ」、「整形のホームページ」、これらについても一考の余地がある。

《埋没で二重にする際の正規価格は十万円で、子供を堕ろすのに必要なのもやはりおなじ十万円だった。》――そもそも「正規価格」とは何だ? 定価を言いたいのか、正価を言いたいのか、アパレルの業界用語の「プロパー(正規)価格」を言いたいのか、「正式な規則に基づいた価格」という新たな概念をつくりたいのか、いずれにせよ自由診療の美容整形/保険適応外の中絶手術に(相場はあれど)「正規価格」なるものは存在しない。文脈からして、作者は「定価」に近い意味で使っているのだろう、だとしても医療行為のそれは「料金」また「費用」とするのが一般的だ。日本語うんぬん、小説の文章うんぬん以前に、常識のなさ、リサーチ不足が気になってしまう。

《高三のクラスでは、一、二、三、四、五、六、ナナの七人グループだった。》――この寒々しいオヤジギャグが「エモーショナルで乱脈な文体」「日本語ラップのリリックのような鮮やかなパンチライン」か、中年の男のオヤジギャグは煙たがられるものだが、若い女のオヤジギャグは文学的価値が認められるようだ。登場人物の名前を漢数字で表現するのも安直、「小説の文章で目立たないモブキャラを表現したい、そうだ漢数字で書いてしまう」といった底の浅さを感じる。そういえば、福永信がとある小説(題名は忘れた、誰か教えて欲しい)で登場人物にABCDと振っていた、面白い作品ではなかったが、登場人物の名前のアルファベットが小説の企みとして一定の効果を発揮していた点では評価に値する、日比野コレコの読みにくいだけでほとんど意味のない漢数字の登場人物とは大違いだ。

《でもそれは総合的には、チョキ、グー、グー、でナナがいつもじゃん負けしているみたいな三人組で、なんとか勝とうとして相手のグーをこじ開けてみたところでなかに真珠が入っているのがオチなのだった。》――意味不明。

《「してるときゴムが外れちゃって、アフターピルをオンライン処方してもらったんだけどさ、あれってお金をクレカで払わなきゃなんないの。それで彼氏にクレジットカードを貸してもらって、名前を大文字で、REN FURUNOって入力してるとき、このひとと結婚しようって思ったんだよね」》――長ったらしい説明台詞、今時の女子高生を装った地の文かと思った。「三」は「名前を大文字で」とまで親切に説明してくれるが、そのREN FURUNOは「レンフルノ」と声に出しているのか、「あーる、いー、えぬ…」とアルファベットを一文字ずつ読み上げているのか、肝心の話しぶりが伝わってこない。ここから分かるのは、作者は「耳」で登場人物の声を捉えるステップを踏まず、読者から「目」で読まれることだけを想定してカギカッコ内の台詞を書いている、ということだ。「耳」を使わず「目」だけを使って台詞を組み立てているから、登場人物の発声すら分からない説明的なそれになってしまうのだろう。

《もしかしたらアフターピルが効かなかったのかもしれない、とかなり真に迫っていた三の妊娠疑惑が、》――「真に迫る」の使い方が間違っている。

《妊娠検査薬代を三で割って購入し、》――改行後、段落のはじめにある文章、この書き方では「妊娠検査薬」ではなく「妊娠検査薬代」を「購入」したことになる。意図して書いているならセンスがない、意図せず書いているなら基本的な作文能力が疑われる。

《妊娠の可能性を意味する赤い線は出てこなかった、と三は言った。》――思わず笑った、友達同士の会話の台詞とは思えない、説明書の音声読み上げソフトがインストールされたロボットみたいだ。これが「してるときゴムが外れちゃって、」と話していた女子高生と同一人物なのだから驚く。

《三人は好き放題に手を絡ませながらプリクラ機に突進していく。》――「好き放題に手を絡ませながら」とは何だ、説明にも描写にもなっていない。

《ナナには、生きていくなかで、心をここになら置いておける、というような安全な場所がないから、負の感情をぜんぶ受け取ってひとりでため込んでしまう。》――「心をここになら置いておける」とあるが、これに近い言葉である「心を置く」は「打ち解けないで、心に隔てを置く」の(どちらかと言えばネガティブな)意味で使うのが一般的だ。作者は、「心を置く」を、「心置きなく」(気兼ねなく、安心して)「気が置けない」(遠慮したり気を遣ったりする必要がなく、心から打ち解けることができる)といった相手への信頼や安心をあらわす言葉とごちゃごちゃにした挙句、「心をここになら置いておける」というトンチンカンな表現に至ったのだろう。

「(ナナは)負の感情をぜんぶ受け取ってひとりでため込んでしまう」という文章の後、ナナとナナの仲間がクラスのいじめっ子グループであること、ナナが弟に女装を強制して写真撮影するという性的な虐待を働いていることが淡々と説明される。ナナは、自分よりも弱いと判断した相手に加害行為を繰り返しながら、「負の感情をぜんぶ受け取ってひとりでため込んでしまう」と悲劇のヒロインぶる痛い女子高生らしい。

《妊娠疑惑のことを低い声で話し合う一週間半がハッピーエンドで終わって、三人はまた教室でわいわい騒ぐようになった。》――「一週間半」、「ハッピーエンド」、「わいわい騒ぐ」、小学生か?

《ナナたちが最初に始めた軽いいじめは、桜前線みたいに、ばあーっとクラス中に広がって行った。》――この作品の三人称の語り手はいじめ加害者にとことん優しい。たとえば「軽いいじめ」、これはいじめ加害者が好む言い訳だ(いじめの軽い重いを判断するのは被害者であり、加害者ではない)。試し読みの範囲のいじめ関連の記述をいくつか取り上げると、いじめは《間引き》、間引きされない(いじめられない)《一軍》は《総じて健康的》な存在、《間引き》された《敗者》は(《一軍》にとって)《蹴飛ばして遊んでいた小石》に等しい存在、《陰キャばっかりのごみ箱みたいなクラス》、《すぐ引きやがる》、《ノリも悪い》etc……いじめ加害者を擁護する表現、いじめ被害者を見下す表現、陰キャ・オタクへの露骨な蔑視が(無批判に)出てくる。この作品の三人称の語り手はいじめ加害者たるナナに同情を寄せつつ、いじめ被害者に対して差別的なレッテル貼りでもって追い討ちをかける。まるで、いじめグループの下っ端がいじめリーダーに気に入られたいがために書き殴った作文のようだ。

もっとも、小説の内容が「道徳的」である必要はない、いじめだろうが殺人だろうが放火だろうが近親相姦だろうが、作者がそれを描きたいのであれば描けばいい。ただ客観性に欠ける小説はつまらない、ひとりよがりにならないよう工夫を凝らす必要はある。一人称を使ってナナ(いじめ加害者)特有の歪んだ精神性を炙り出すなり、三人称を使ってナナ(いじめ加害者)から適切な距離を置きつつ描写を重ねるなり、いくらでも方法は考えられる、どうすれば作品に迫力を持たせられるか、どうすれば作品のイメージに広がりをつくれるか、そこが作家としての腕の見せどころ、しかし作者は「負の感情をぜんぶ受け取ってひとりでため込んでしまう」というポエムを垂れ流しながらナナ(いじめ加害者)の頭をヨシヨシ撫でることを選んでしまった。「どしたん? 話聞こうか?」。

――日比野コレコ『ビューティフルからビューティフルへ』は、こうした「話にならない」(本当に、話にならない)文章が延々と続く。作者はダウンタウンが好きらしい、そういう意味では、一文一文の単位で「ボケとんのかいッ!」と叫びたくなるようなツッコミどころが用意されている(まったく書き切れないほどの……)。文藝編集部はこれが時代の最先端と言わんばかりの宣伝を打ち出しているものの、作中にあふれる古臭いサンプリング()のせいで、むしろ昭和・平成の懐メロ、昭和・平成の「遺物」のような趣がある。題名は伏せるが、某女性向け漫画のヒット作のが現代風俗を的確に表現している(誰かが「現代の詩人は漫画家だ」と言っていた、僕も同意見だ)。

……安堂ホセ『ジャクソンひとり』にも色々と言及するつもりだったが、もう、疲れてしまった。いちおう、ざっと書く。こちらも、小説の文章になっていない。とりわけ酷いのは比喩だ、《ココアを混ぜたような肌》、《ぱっちりしすぎて悪魔じみた目》、《黒豹みたいな手足》、《黒人みたいな肌》、《人形みたいな目》、《モデルみたいな手足》etc……最近のライトノベル作家のがまともな比喩を書いている(一時期のキレッキレの山田詠美ならブチギレていたのではないか)。

それでも、日比野コレコの小説を読んだ後では、安堂ホセの小説がいくらか良いものに思えてしまう(これは恐ろしいことだ)。日比野コレコの小説が三角コーナーの生ごみとすれば、安堂ホセの小説は前菜皿に盛り付けられた生ごみだろう。

いいなと思ったら応援しよう!