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『歎異抄』の特徴~親鸞聖人の信仰告白

第二条 関東から訪ねてきた人々

今回は親鸞聖人の信仰告白が書かれているところについてです。
私は一番この部分こそ、数ある哲学者や知識人たちを虜にしてきた、親鸞聖人の御言葉だと思います
まず紹介するのは第二条です。この言葉にいたる経緯があります
「おのおのの十余か国のさかひをこえて~」と第二条は始まります。これは親鸞聖人が関東から京都に帰られた、晩年のお話しです。関東のお弟子がた、み教えを喜んでいる方々を残して、親鸞聖人は京都へ帰られます。これは親鸞聖人が後世の人々にもこのみ教えを残すために、本を書きたい、ただ資料というかいろいろな経典やら論書もたくさん必要で、その資料が手に入りやすいのが京都なので、京都に帰られたと伝えられています。
で、関東に残った方々がひとつにみ教えが統一されていたわけではなくて、親鸞聖人はこうおっしゃってた、ああおっしゃってた、とかこうおっしゃてたからこうだろう、ああだろう、といろんなことを言いだす人が出てきました。そのなかで、わからなくなる、私はこう聞いたはずやけど、あっちではああ言ってる、おかしいとは思うけど私が間違ってるのだろうか、それともあちらが間違ってるのだろうか、と迷う人が出てきたわけです。
その中からこれはもう直接親鸞聖人にお聞きするしかない、そうでしかこの疑問はなんとかならない、確実なことが言えない。親鸞聖人の御仲間は常陸の国、今の茨城県あたりにいらっしゃって、徒歩での旅になりますから、もしかしたら命を失うことになるかも、盗賊やら危険なことがあるかもしれないけれども、それでも親鸞聖人のもとへ行くしかない、と思われた方々がいらっしゃったわけです。
そうして十余か国のさかいをこえて、と茨城県から京都まで、下総とか武蔵とか相模とか十何か国かをこえて親鸞聖人の元にたどり着かれた。そしてその方々は尋ねられるわけです「実は親鸞聖人に教えてもらった往生のための秘法があるとか、あるいは念仏をしていればどんなことをしても救われるとかいう人間たちがいる。往生極楽の道とは、正しい念仏の道とは、なんでしょうか。私たちは本当に念仏ひとつで極楽へ往生できるのでしょうか?」本当に心からこれだけは親鸞聖人に聞かなければ、と必死の思いで京都まで来て尋ねられるわけです。

「よきひとの仰せを被りて」

その関東の方々に親鸞聖人の御答えは
「私においては、ただ念仏して、阿弥陀様にたすけられるのだと、法然聖人のおっしゃったことをそのままいただいて、信じているという他に格別なものなどありませんよ」
念仏以外の秘法があるとか、難しいけれども確実に往生できる方法が載っているお経を知ってるとか、そういうことを思っているかもしれないけど、そんなものはありません。ただ師匠・法然聖人のおっしゃった阿弥陀様は私たちを必ず救うとおっしゃっているというお言葉をいただいて念仏しているというだけです。
すごく突き放しているように聞こえるかもしれません。でも親鸞聖人の正直な思いというものがはっきりと感じ取れます。それは法然聖人への信頼、という言葉ですら表せないそれよりももっと強い思いです。

「地獄は一定すみかぞかし」

この続きの部分でもっとそれを感じ取れます。
念仏は浄土往生の種なのか、地獄へ落ちる業なのか、どっちなのかということは私は全く知りません。でもたとえ法然聖人に騙されて念仏したから、死後地獄へ落ちたとしても、全く後悔する気持ちなど起こらないでしょう。
念仏して念仏して生きていき、最後自分が死んだあと、エンマ大王の元にいって、「お前は念仏してたから地獄行きや」といわれたとしても後悔しない、とおっしゃっています。
その理由は、念仏以外の何かの修行を一生懸命やっていたら、仏になれたであろうという私が、念仏して地獄へ落ちたというなら、だまされた、という後悔もあるでしょう。けれども私自身の身はどんな修行でも仏になれない身であるので、どうしても地獄行きは決まっている、地獄は私のすみかなのです。
親鸞聖人の自分というものをどうとらえているか、がよくわかるところです。
私もね、想像してみるんですけど、もしね、親鸞聖人が80歳で亡くなられた後、閻魔大王のもとへいって、「親鸞よ、お前は地獄行きや」と言われたとしても多分、「うわぁあ、しまったー、念仏なんてするんじゃなかったぁ」とはおっしゃらないでしょうね。多分、「お前は地獄行きや」と言われたら、静かに「ああ、やはりそうでありましたか。阿弥陀様にお念仏申して生きてきましたが、阿弥陀様にも救えないほどの罪業を抱えたわたしでありましたか。法然聖人にお出会いできて、幸せな一生をおくらせていただきました。ありがたいありがたい」と念仏しながら地獄へいきはるような気がしてます。ここを読むともし親鸞聖人が地獄へ行かれたとしたらそんな風におっしゃるように思うんですね。

信じるということ

何かを信仰する、信じる、と私たちは口では軽く言えますけれども、本当にここまで信じる、ということが私たちにできるでしょうか。自分の身をここまで深く罪業深重の凡夫であると思い、また、ここまで深く法然聖人の御言葉だけをただ信じるということが、私にできるのか、という気がしてきます。
多くの哲学者や知識人たちも同じだと思います。そういう人というのは、いろんなものを読んで講義を受けていろんなものを知っていく。その中で自分の考えと合うもの、自分にしっくりくるものを信じようと言うんだけれども、やっぱりどこかで自分の思いというのをはさみながら、知識としていろんな情報を見て知っていくわけです。情報として、その情報を自分の人生にどう生かすか、という気持ちでいる。つまり、あくまで主体は自分にありながら、人生を豊かにしようと情報を得ていくわけですよね。でも親鸞聖人の法然聖人への思いは全く違う。すべてを預けているといっても過言ではないくらいに、自分の後生、死んだ後のことは法然聖人のおっしゃる通りである、阿弥陀様が助けてくださるのである、とおっしゃっている。これを読むと本物の信仰とはということを考えざるを得ない、自分の使っていた「あの人を信じてる」とか「あの本は信じられる」という言葉の空虚さを感じざるを得ない、そういうところがあると私には思えます。

「親鸞一人がためなりけり」

もう一カ所『歎異抄』の最後のあたりになりますが、このような部分があります。
親鸞聖人が常々おっしゃられていたのは「阿弥陀様の五劫思惟の願をよくよく考えてみれば、ひとえに私、親鸞一人のためのものであった。」その続きに「さればそんなぐらいに罪業を持った身である私を、助けようと思ってくださった阿弥陀様の本願。なんともったいないことであろう」このように常々おっしゃっていた、と唯円は書いています。
これもまた親鸞聖人の信仰の姿を現しているところです。
阿弥陀様が法蔵菩薩という菩薩であったときに、師匠の仏様にいろいろな仏様の国々をみせてもらい、それから五劫という長い長い時間をかけて、四十八願を建てられた。なぜそんなに五劫という長い長い時間がかかったのか、それは私を救おうとしてくださったからだ、とても救えないほどの罪業を抱えた身である私をそれでも救おうと五劫もの時間をかけて四十八願を立ててくださったのだ、なんとありがたいことか。
阿弥陀様が仏となり、その阿弥陀様が私に届くまでには、長い長い物語があります。法蔵菩薩が四十八願を五劫の時間をかけて建て、もっと長い時間をかけて修行し、阿弥陀仏となられた。その阿弥陀仏の願によってお釈迦さまはこの世界で阿弥陀仏をほめたたえられ、そのお釈迦様の意をうけて、七高僧はインドから中国、日本へと仏教を伝えてくださり、そして法然聖人によって私に阿弥陀様のみ教えが届いた、そのすべては私を救うためのものであったんだ、という信仰告白です。
これは宗教というものの本質をあらわした言葉です。宗教の本質の中には、私と上位者、神とか仏とかの二つだけで語るべきことという部分があります。私は仏とどう向き合うのか、そして仏は私にどう向き合ってくださっているのか、その思いこそが宗教心というものです。「この教えはわたしのためにこそある」という親鸞聖人の御言葉は、信仰の本質をついている言葉であり、読む人に、あなたはどう神や仏と向き合っているのか、と考えさせる一文と言えるでしょう

親鸞聖人の語られた言葉

特に私はこの最後の部分、親鸞聖人の信仰告白こそが『歎異抄』の魅力の一番の部分だと思います
親鸞聖人の法然聖人への向き合い方、ひいては阿弥陀様への向き合い方、心持ち、そういったものは親鸞聖人がご自身で書かれたものにももちろんあるのですが、書いた言葉ではなく語られた言葉で、残されている。書いた言葉では一歩引いた論理で語ろうとする部分があるけれども、語られた言葉ではお気持ちの部分がより伝わってくる。そういうところが『歎異抄』が評価される理由であり魅力であると思います。
『歎異抄』の一番古いものは蓮如上人が書写された物が残っています。その本には蓮如上人の奥書があります。この『歎異抄』という本は、私たち浄土真宗にとって大切なお聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書をみせてはならない、と書かれています。浄土真宗以外のものが浄土真宗を批判するために利用しようとすれば、悪人が救われるとか念仏を喜べないとか、そんな文言が並んでいるこの『歎異抄』は議論を大きく広げることができる批判の種が並んでいる書物です。だから蓮如上人はこの書を安易に見せてはならぬ、とおっしゃいました。
『歎異抄』を読めば、仏教が分かる、浄土真宗がわかる、とそういうような性質の本ではありません。それよりも自分の心持ち、感覚、信じるということを突き付けてくる本です。もし読みたいなと思ったのであれば、そのように思いながら、すべて読もうというのではなく、自分の心に残るところを読んでいただくと、『歎異抄』の魅力というものがわかってくるかもしれません。

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