『歎異抄』の特徴~逆説的な言葉
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候わず。」(『歎異抄』第五条)
逆説的な言葉
『歎異抄』という本は、浄土真宗のお聖教の一つです。唯円という親鸞聖人の弟子が書いたと言われています。この『歎異抄』の魅力について3つ挙げていきたいと思います。
『歎異抄』の魅力のひとつめは、逆説的な言葉を使っていることです。
世間の常識、法然・親鸞が現れる前の、一般的な仏教の認識やイメージをいきなり逆説的な言葉で壊します。いきなり「え!?」と思うような言葉をポンと言って、そのあとに普通はこうだよね、でも親鸞聖人のおっしゃっていたことはそうじゃなくてこうなんだよ、なぜなら…と、こんな感じで続く文章が続いていくわけです。だからはじめびっくりするようなことが書いてあります。
普通の親鸞聖人の文章だと、このお経にこう書いてある、違うお経にこう書いてある、高僧がたはその書いてあることをこう解説していらっしゃる、だからこれはこういうことなんです。というのが『教行信証』などにある説明です。だから読んでてびっくりはしないわけです。『歎異抄』の場合には常識を壊しておいて、なぜならこうだからだよ、と語るから、とても印象に残る文章になっています。
悪人正機
逆説的な言葉で最も有名なのは、『歎異抄』第三条の最初「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」。善人ですら浄土に往生するのである、まして悪人は言うまでもありません、と言っています。
この言葉に関しては、善人とはどんな人間で悪人とはだれなのか、ということを世間とは違う視点で見ています。善人とは自力作善の人だと、つまり自分はいいことをしている、仏様に「お、こいつは!」と思ってもらえると思って念仏している人、一生懸命念仏すれば、念仏していない人よりはちょっといいところへいけるはずだ、と思って念仏する人、こういうひとを善人といっています。もっと拡大すると、自分はいいことができる、いいことしか言わない、正しいことしか言わないと、そう思っている人。そういう人は阿弥陀様の本願力に任せるという心が欠けているので、阿弥陀様の救いの対象としては少し横に置かれている、ということを言っています。
悪人というのは自分の力、自分の見方が正しいと思っていない人、自分の一生懸命やっていることが仏様から見て価値があると思ってもらえると思わない人、自分にとっては正しいけれど、相手にとっては違うかもしれないと思える人、そういう人を悪人といっているのであり、そういう人こそ救いたい、とおっしゃていただけるのが阿弥陀様だ、ということです。
自分が生きている上でしていることが、とても仏様の目に留まるとは思えない、いいことをしてるつもりでも全然できてないと思っている人は、苦しいわけです。苦しいけれどもどうしようもなく阿弥陀様におすがりするしかない。お任せするしかないわけです。そういう苦しいという人、お任せしないとどうしようもないと思っている自分が正しいとは思えない悪人の自覚あるものこそ、阿弥陀様が救いたいと思われる一番の目当てである、とこういうことが書かれているのが、この第三条の『歎異抄』で一番有名な部分です。
こちらから両親を供養する?
ご讃題の『歎異抄』第五条もまた逆説的です。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候わず。」
これも世間一般の感覚を壊しにかかっている言葉です。普通なら例えば両親が亡くなっているとしたら、お父さんお母さん、いい所へいってね、未練を残さないでね、こっちで一生懸命お念仏するからね、といって自分の念仏した功徳をポイントみたいな感じで貯めて、それを阿弥陀様、これを両親の分としてカウントしてその分で両親をいい所へ行かせてあげてください。いうなればポイント贈与という意味でお念仏するというのが普通の感覚だった。ところが、両親に孝行するためにつまりは追善供養するために念仏したことは一回もない、と親鸞聖人はおっしゃるわけです。
なぜかというと、「袖ふれあうも他生の縁」ということわざがありますけれども、あのことわざのとおりで、今はこの生ではたまたま私の両親はあの二人だったけれど、他の生では違うでしょう。今隣の人とか、かわいがってる猫とか、あるいはたまたま家に入ってきた鳥や虫とかが、実は前世では両親だったかもしれないじゃないですか、前前世では兄弟だったかもしれないじゃないですか。ということは今ここで一緒に生きている人も動物も植物も、みんな救わないといけない人たち救いたいと思うべき人たちじゃないか。まずここが一点。
しかも自分が功徳を積める、仏様の目に留まることができる、と思って念仏するなら、その念仏を今の両親の分として振り向けることもできるかもしれないけど、そもそも自分は悪人で、それができないと。ポイントをためるようなことができないのだから、まずは自分がお浄土に往生して、仏となって、それから今の両親、前世の両親、前前世の両親そういう人たちに「阿弥陀様がいるよ、阿弥陀様はお前を救うぞと呼びかけてくださっているよ」と救いに行くべきである、という事になるわけです。
これが『歎異抄』第五条の書かれていることで、これは両親が阿弥陀様のお浄土に行ってないと仮定する場合ですね。
じゃあ両親がお浄土に行ってると仮定したらどうなるかというと、すでにお浄土に往生されて仏となられているわけですから、それ以上なにかランクとか段階とかを登っていく必要がないわけです。最上の地位に阿弥陀様によって行かれています。だとするならこっちの世界からどうのこうのとする必要が全くありません。むしろ、お浄土に行かれた方々がこちらの世界にに戻ってきて一生懸命呼びかけてくださっていることでしょうから、その呼びかけに応えてお仏壇の前でただただ感謝のお念仏するというのが、両親の願いにかなっていることとなります。そのお念仏は感謝のお念仏であって、このお念仏で両親をなんとかしてくれ!というのとは質が全く違うわけです。だから親鸞聖人は、両親のために追善供養でお念仏したことは一回たりともない、とおっしゃったわけです。
このような風に書かれている『歎異抄』は当たり前を当たり前ではなくす、常識を違うよ、という、新たな価値観を提供する、そういうことが書かれている。だから魅力的な本として『歎異抄』があげられるのです。
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