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仏様の位と念仏者の位置

「念仏往生の願により 等正覚にいたるひと すなはち弥勒におなじくて 大般涅槃をさとるべし」
 
今回は仏様の格から念仏者の位置というお話です。
浄土真宗のご本尊は阿弥陀仏です。阿弥陀如来ともいう事ができます。仏、というのは仏陀という言葉の略で、仏陀という言葉は古代のインドの言葉で目覚めた人、という意味があります。もともとお釈迦様が現れる前から、インドでは修行僧の方が多くいて、いろいろな思想のもと、修行をされていました。そういう人の中でも優れた修行僧だったり、聖者といわれる弟子をもって教え導く人を仏陀、と呼んでいました。その中でお釈迦様が35歳で悟りを開かれてみなに仏法を弘めるようになり、そこから目覚めた人という一般名詞だった仏陀という言葉が、お釈迦様ただひとりのことを指すようになりました。尊敬の念を込めて如来と呼ぶこともあります。
 そんな仏は釈迦如来を筆頭に、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの如来がいらっしゃいます。
 その存在は有名でありながら、名前は知られていない如来は毘盧遮那仏、でしょう。これは東大寺の大仏様が毘盧遮那仏、です。宇宙の真理をあらわす仏といわれています。毘盧遮那如来、とお呼びすることもできます。
 次は菩薩です。菩薩は悟りを求める人という意味があります。仏の一段階下ということですが、日本に伝わってきた仏教では自ら悟りを求め、同時に生きている者たちすべてを救おうとする者という意味になっています。あと一歩で悟りを得ることができる修行者、という仏という上を目指すものという意味もありつつ、逆に生きている者たちを救うために仏の悟りから一歩おりて、より生きている者たちに近づいて救おうとしている、として菩薩という地位をとらえることもあります。
 この菩薩でも浄土教のお経で出てくるのは観音菩薩と勢至菩薩です。お二人とも阿弥陀様の脇侍(わきじ)です。
 この観音勢至の両菩薩で思い出すのは親鸞聖人と恵信尼様、このお二人のご夫婦としての思い方がとても印象深いです。
 親鸞聖人は、師匠の法然聖人のことを勢至菩薩の化身と思われていました。和讃のうちのひとつ浄土和讃の最後には「大勢至菩薩和讃したてまつる」と8首の和讃を残されています。そしてそのあとに「源空聖人(法然聖人のこと)御本地なり」と書かれています。法然聖人こそ阿弥陀様の智慧の象徴である勢至菩薩の化身と考えられていたわけです。
 観音菩薩のことは親鸞聖人ご自身では書かれていません。ただひ孫である覚如上人が書かれた御伝鈔の中にそのことが残されています。9歳で比叡山に上られ修行を続けてこられた親鸞聖人は29歳のとき、比叡山を降りられました。そのとき六角堂にいらっしゃって100日の参籠をされました。六角堂のご本尊は観音菩薩なのですが、95日目の夜、親鸞聖人の夢に観音菩薩が現れて、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(もし行者が女性と結婚しなければならない宿命にあるのであれば、私がその女性となってやろう、一生の間あなたをたすけ、死ぬときには極楽へ導くであろう)」と言われたとあります。その後法然聖人のお弟子となり、親鸞聖人は恵信尼様と結婚されていますから、この伝説がほんとうであれば、親鸞聖人にとって恵信尼様は観音菩薩の化身と思われていたということになります。
 では恵信尼様はというと、それは恵信尼消息という恵信尼様のお手紙の中に残っています。親鸞聖人と恵信尼様が関東の方へ移られたころのことですが、恵信尼様は夢を見たと。その夢では、御堂、本堂が東向きに立っていて、どうやらお祭りのようでたいまつがたかれていた。たいまつの西側に鳥居のようなものがあり、そこには仏様の絵像が二つかけられていた。片方の仏様は光輝くばかりで姿かたちははっきりとわからない。もう片方は仏様のお顔であった。近くの人に「これはなんという仏様なのでしょうか」と訊くと誰ともわからない人が「あの光輝くばかりでいらっしゃるのは法然聖人です。勢至菩薩なのです」と「ではもう御一方は」と訊くと「あれは観音菩薩です。あれこそ善信房(親鸞聖人)ですよ」と言われた、とそういう夢を見た。さすがにそれを人に言っても本当のこととは思ってもらえないでしょうから、人には言いませんでしたが、法然聖人のことだけを親鸞聖人に言いましたなら、それは正夢でしょうとおっしゃっていた。観音菩薩のことは言いませんでしたが、心の中では親鸞聖人のことを普通の方とは思わずに過ごしてきました。とこのようなことを書き残されています。
 現代に生きる私たちはたかが夢、となりますが、当時の人にとっては夢はとても意味のあるものと思っていましたから、親鸞聖人も恵信尼様も真実を告げる夢、と思われていたことでしょう。ということは親鸞聖人と恵信尼様はご夫婦でともに法然聖人を勢至菩薩と思い、お互いを観音菩薩の化身と思って過ごされてきたということになります。
 なかなか、現実の中で毎日過ごしているといい所も嫌なところも見えてきますから、相手のことを菩薩様と思ってなんてちょっと信じがたいことですが、夢というものへの考え方が現代と違っている当時ならば、本当にそのように思って過ごされていたのかもしれません。
 あとの二つは簡単に。明王は不動明王とか愛染明王などがいらっしゃいます。密教つまりは主に真言宗や天台宗の方で敬われる方々です。密教での本尊である大日如来が仏教へ帰依するように勧めるため化身となって表れた方々、といわれています。
 天、はインドのバラモン教の神様が仏教と結びついて生まれた方々です。梵天というのはブラフマンという神様から、帝釈天はインドラという神様から生まれた方です。
 
 ではこの中で、私たちの位置はということになります。と思うと到底私たちが入れるような位置はありそうにない、ただ人の私たちがこの位のどこに入れるというのか、という気持ちになります。
 ところが、親鸞聖人は和讃ではっきりとこのように書かれています
念仏往生の願により 等正覚にいたるひと すなはち弥勒におなじくて 大般涅槃をさとるべし
 三句めのすなはち弥勒におなじくて、とあります。弥勒とは弥勒菩薩のことです。仏から一個下がった菩薩、その中でも今も兜率天という天上の世界で修行をしている菩薩さまで、この世界で釈迦が入滅してから約56億7000万年後に悟りを開き、仏となると言われている方です。
つまり
阿弥陀様の第十八願、私たちを必ず浄土へ迎えよう、という願によって
阿弥陀様の信心をいただいて念仏者となった者は
弥勒菩薩とかならずこの先に悟りを開き仏になるという点において同じであって
大いなる悟りを得ることができる
という意味です。
しかしここで気をつけなければならないのは「等正覚にいたるひと」とあります。等正覚にいたるひととはどのようなひとかというと、信楽(しんぎょう)まことにうるひと、とこの2個前の和讃でいわれています。信楽とは信心のことです。阿弥陀様の信心をいただいた人、阿弥陀様の本願力のお救いを、南無阿弥陀仏の六字の姿を、しっかりと心にいただいた人、ということです。自分が煩悩具足の凡夫であると気づき、そのような私を確かに阿弥陀様は救おうと願っていてくださっている、と真実いただいた人は、正しくさとりを開くことが決定しているので弥勒菩薩と同じであるといわれているわけです。
仏教徒は悟りを開き仏となるということが最終目標がある、と聞くと私たちはどうしても下からだんだんと上に上がっていくのだろうと思いがちです。段階を踏んでひとつひとつ努力してあがっていくのだろう、と。しかし親鸞聖人は阿弥陀様の信心をいただいた人はいきなり段階を踏まなくても菩薩と同じであるとおっしゃいます。それほどの大慈悲を阿弥陀様は私たちにかけていてくださるのです。そのようにいただいておみのりのお聴聞を続け、ありがとうのお念仏を称えていくことが大切なことだと思います。

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