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新しい『領解文』の仏徳讃嘆

浄土真宗本願寺派では今、問題とされていることがあります。
新しい『領解文』についての問題です

この問題で浄土真宗本願寺派の総局(国で言う内閣)は「約仏からの仏徳讃嘆もありうる」との見解があるとしたうえで、この新しい『領解文』の特に「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という表現を認めるとのことのようです。
ここで私は「約仏からの仏徳讃嘆」はどこまで認められるのだろう、と思っています。
たとえば、阿弥陀仏の四十八願、この中で第十八願こそ、「本願の中の王」といいます。これは第十八願こそが、私たちを救おうという阿弥陀様の誓いだからです。これは約生(衆生側から見た見方)でしょう。
では四十八願のうち、第一願「私(阿弥陀仏)の浄土には地獄餓鬼畜生という三悪道のものはいないでしょう。そうでなければ決してさとりをひらきません」というこの内容は、阿弥陀様のご自分の浄土に対する最初の願い、こういう浄土を建てたいという根本のところにある願だといえます。この願いこそ大事にするというのが「約仏からの仏徳讃嘆」と言える気がするのです。
でも第十八願より第一願をほめたたえよう、などと言う人がいたら、おそらく本派僧侶のほとんどが、頭に?マークを飛ばすでしょう。なぜなら、浄土には地獄餓鬼畜生のものがいないこと、よりも、私たちは浄土に行けるのか、という問題の方がよっぽど大きなことだからです。私が行けない世界に地獄餓鬼畜生がいようがいまいが、どちらでも変わりはありません。重要なのは私は阿弥陀様に救われ浄土に生れることができるのか否か、です。
あるいは、この四十八願の中で序列をつけること自体が間違いかもしれません。阿弥陀仏とは「不可称不可説不可思議」であり、「法身(ほっしん)は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。」という存在だからです。であれば四十八願に序列をつけるのは衆生の考え方であって、阿弥陀様のお考えの中には序列はないのかもしれません。しかしながら、そうであるならばなおさら、「約仏からの仏徳讃嘆」というのは成立しえないのではないでしょうか。とても私たちの理解しえない存在である阿弥陀様の見方を、衆生である私たちができるわけがありません。約仏からの仏徳讃嘆というのは本当にありなのか、と思ってしまいます。

私たちは煩悩に振り回されてしかもそれに気づかずに生きている。阿弥陀様の前に座る私は、楽に生きたい便利に生きたい、地位が欲しい名誉が欲しいそういう思いがどうしても自分からなくならない。そのことに気づく生き方ができるのが浄土真宗のものの生き方です。
人も組織も誤ることがある、という観点に立ってもらえれば、とおもうばかりです。

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