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善意の塊

「是非しらず 邪正もわかぬこのみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃116)

今回は思い込みの善意の話をさせていただきます。
マンガで『セクシー田中さん』という作品があります。
この作品が去年の10月から12月に日本テレビでドラマ化されました。そこで原作を書いていた漫画家の芦原さんは、大事な作品だから原作通りでやってほしい、まだ終わっていない作品だから、終わりの部分に関してはかなり口出しをする、あるいは自分で脚本を書くこともありうる、それでもいいならドラマ化に合意します、ということを出版社に伝えた。出版社とテレビ局で交渉し、ドラマ化は決定。やがて脚本が上がってきて芦原さんがチェックすると直しが多く、かなり手を入れていたらしいです。その結果とても脚本家には任せられない、と最後の終わりの部分については芦原さん自身が脚本を書き、無事ドラマは制作が終わり最終話が放送されました。
ところが、ドラマの最終話が放送されたその日。脚本家の方が、「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」と投稿した。それに対して、その投稿の一か月後、原作者の芦原さんも同じく今回の経緯を投稿。これはドラマ化の経緯、最後は自分が脚本を書くことになった理由は、もともと原作通りにと言っていたにもかかわらず、原作通りではない脚本が上がってくるので、とても任せられないとなり自分が脚本を書くことになった、もともとそういう話もしていた、という内容で投稿されました。そうすると脚本家やプロデューサーに対して、非難の声がネット上で上がっていきました。
芦原さんは多分、事実を事実として書かれたんだと思います。自分のなかの事実はこうです、と発表された。ところがそれは相手方への非難もっといえば攻撃という形になってしまった。二日後、芦原さんは、最後に「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」と一言を残し、失踪され、次の日には遺体となって発見されました。おそらく自殺であろう、と言われています。
これが1月の末ごろのこと。それからドラマを制作した日本テレビ、出版社の小学館は、今回のドラマが原作者の芦原さんの死をもたらした原因になったことについて調査委員会を立ち上げて調査し、その結論の調査報告書が出たのが日本テレビが5月31日小学館が6月3日です。
まず、原作者の芦原さんが出されていたドラマ化の条件、つまり原作通りにやってほしい、原作通りでないならば原作者がかなり加筆修正するという条件については、小学館と日本テレビの間で交渉したときに、書面や口頭で伝えられ、日本テレビ側としては原作者側からの提案という意味で受け取っていた、つまりドラマ化の条件という認識はなかった、とのことでした。
また、原作者の芦原さんが脚本を見てあるシーンについて問い合わせたところ、本当は5日後に撮影予定だったにもかかわらず、すでに撮影済みですと回答していました。そのシーンについてはすでに準備が2か月前から進んでおり、変更を求められると撮影現場に迷惑がかかるので、すでに撮影済みですといって変更はできないように嘘を吐いたということです。日本テレビ側の言葉を芦原さんは信用できなくなったことでしょう。
そして原作者がまだ書かれていないラストの部分については、あらすじやセリフを原作者が用意し、それを変更しないでほしい、変更するならば、原作者が脚本自体を書くこともありうる、という条件にしていたはずですが、日本テレビ側の認識ではあらすじやセリフを原作者が用意するけれども、あくまで脚本を書くのは脚本家、という認識だった。結局、その認識のずれは解消されず、脚本家はもともとそんな条件だったとは知らずに原作者におろされた、という認識だった。そしてそんなことを許しては他の脚本家の尊厳にも関わる、と思ってネット上に「過去に経験したことのない事態で困惑しましたが」というような文言で投稿することになった、それを日本テレビ側も脚本家が投稿することを事前に言われていたけれども、個人の表現の自由の範囲内であるということで止めることはなかった、という報告書になっています。

ここで、考えるべきは、日本テレビ側の思っていたことです。結果としては最悪の事態を迎えてしまって、作品自体が未完のまま原作者がなくなる、ということになってしまったわけですが、日本テレビ側としてはそんなことになるとはひとつも思わずに企画したはずです。テレビは視聴率がいいものを作りたいわけですから、視聴率の取れるドラマを作ろう、と思っていた。たくさんの方が見てくれれば、原作の知名度も上がる。原作を読もうという人も出てくる。そうすると原作者に印税という形でメリットがある。当然、当たり前のように『ドラマ化を原作者が喜ばないはずがない、受け入れないはずがない』…と思っていたであろうと思われます。
ところが、原作者の芦原さんにとっては大事なまだ完結していない自分の作品で、この作品で伝えたいことがあった。それを原作とする以上同じようにドラマでも伝えてほしかった。また今の原作の漫画を読んでくださっているファンの方も満足するような作品をドラマでもしてほしかった。だから、マンガを書くという作業と並行して、脚本をチェックして直して、そしてラスト部分は自ら脚本を書くということを、マンガを書きながら行っていた。そういう負荷をかけているという自覚が日本テレビ側にはなかったであろう、と思われます。
ただ、じゃあその組織の中に私がいたら、と考えますと、例えば日本テレビのディレクターとかADさんとか衣装さんとかメイクさんとか、ドラマを作る側にもし自分がいたとしてどう思っていただろうかと思うと、多分「めんどくさい原作者やな」と思っていたんだろうと思います。ドラマを作るという事は、複数人がそのドラマを形にするために、一生懸命考えて作っています。自分もその一人で、また周りの人間がどれだけ動いているか、ということを知っている立場からすれば、いったんこうしようと決めたものを原作者の意向によってひっくり返される、というのはしんどいことやし、ああーもう!となると思います。しかもそれがこっちは何人もの人間が動いているのに、相手は一人。一人の人間が、これは…あれは…というたびに変更しないといけない、となると腹も立ってくると思います。本当ならそこに尊敬の気持ち、この人が原作を作り出してくれなかったらこのドラマはなかったし、この作品をつまり何かしら面白いとか感動するといった人の情動を動かすものを作り出した方へのすごい、私にはできない、という気持ちがないといけないわけですが、そういう気持ちは忘れて、とにかく10月からの3か月のドラマを作り出さないといけない、間に合わさないといけない、というそっちのことばかりに気持ちが行ってしまうでしょう。
逆に原作の漫画のファンだったらと考えると、多分原作とは趣が違うドラマを放送されたら、こんなんは『セクシー田中さん』じゃない、何をしてくれてんねん、と思っていたと思います。こんなことを伝えるのがこの作品じゃない、ここが違うあそこが違うとおそらく言っていたでしょう。実際、この作品でなくても、ドラマ化やアニメ化されたものを見ると、原作と違う、ここはこうじゃない、と思うことはあります。作品を見た後、SNSで検索して『あ、同じことを思っている人がいるなぁ』と思うこともあります。そういうことを思う私はいろんな作品の原作者にプレッシャーをかけているのかもしれませんし、脚本家の方を追い詰め、そうなるきっかけを作った原作者さんが亡くなってしまうという事態を呼び込んでしまうかもしれません。原作を尊び原作者さんを尊重しているからこそ、そういう発信をするんだけれども、結局原作者さんを追い詰めてしまう、ということでもあります。

最初のご讃題は親鸞聖人の正像末和讃の最後の和讃からいただきました。
是非しらず、邪正もわかぬこのみなり、とは何が是であり非であるのか分からず、何が邪であり正であるのかを本当に理解することができない私です。小慈小悲もなけれども名利に人師をこのむなり、とは また、人を慈しみ悲しむ心も持ち合わせていない私ですがそれでも世間での名声や利益にとらわれて、人の師となることを好んでいるのです、という意味になります。
多分この和讃は親鸞聖人がご自身のことを語られた和讃でしょう。最初の二句は、本当の善、本当の悪など全くわからない私である、ということを伝えています。後ろの二句は、阿弥陀様の『衆生をみんなを救おう、すべて救おう』という大慈大悲に対して、自分は自分の周りのものにだけかける慈しみの心、ともに悲しむ心――小慈小悲すら持っていない身だけれども、人師、人の師、つまりは人からえらいなぁ賢いなぁと言われたいと思っている、そういう私である、ということです。
親鸞聖人の時代と比べると、今の時代というのは誰もが学び、誰もが情報を手に入れることができる時代です。そしてもっと進んで誰もが何かを発信することのできる時代になりました。でもその発信が本当にいいことなのか、善のつもりでやっていることも、どのような影響を及ぼすかはわからないということは肝に銘じる時代になったと思います。自分のやっていることは自分の中では善だけれども、人によっては悪かもしれない、だれを追い詰めるかはわからない。私の中では善であっても、絶対の善、絶対の正義というのはないという気持ち、仏様にお念仏することでそのような気持ちを持つようにありたいと思うところです。

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