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「私は無価値だ」という妄想

前回の投稿を読んでくださった複数の方から、「自分のことのような気がした」という感想を頂戴しました。私も、クライアントさんのお話を聞きながら、私と同じだと感じることがよくあります。

「自分は無価値だ」と思っているから理想が高くなる、理想が高くなるから更に自分の無価値感が増す、という無意識的な心理構造は、私たち人間にとって、普遍的なものだと思います。

今日はこのことについて、少し紐解いてみましょう。

人間が安心安全に生き延びるために、自動的に形成される「プログラム」はどのように作られるのでしょうか?

おぎゃあと生まれた瞬間から、私たち人間の潜在意識は、自己保存・自己防衛のためのプログラムを作ります。

安全この上なかったお母さんのおなかからポンと外に出たあと、すぐに立って歩きだす馬の赤ちゃんと比べると、人間の赤ちゃんはとても非力です。非力ですから、確実に生き延びていくために、両親をはじめ周囲の大人から受け入れられ、愛され、面倒を見てもらわなくてはなりません。「今ここでどうすれば愛されるのか?」なんていちいち考えていたら間に合わないので、自分が周囲に受け入れてもらうために機能する対処法を、刺激P→反応Q、刺激S→反応Tという形で、自動反応するプログラムを身に着けます。

人間は、安全に生き延びるために、やらなければならないこと・やってはいけないことをインストールされているロボットみたいなものだということもできるかもしれません。私は、そのロボットのプログラムの起点に、圧倒的な物理的脆弱さゆえにごく自然に深層心理に刻印されざるを得ない、非力さ・無能さ・無価値感があるのではないかと思います。

その個人にとって最も重要なプログラムは3歳くらいまでの幼少期に形成され、10歳程度までにほぼ8割程度が作られるそうです。赤ちゃんにとってみれば、自分の生まれた家庭に浸透している価値観に従うことが、周囲の大人から受容されるための行動の指針になります。それ以外にも、幼稚園や小学校の時の先生やお友達とのかかわりの中から、どんどんプログラムが出来上がります。育った環境や幼少期の経験が異なれば、それがプログラムの違いとなって、私たち人間の多様性を作り出すのは当然ですね。

「〜でなければならない」というプログラムが作り出す妄想の世界

ここでご披露するのはちょっと恥ずかしいですが、私がこれまでの自己探求のプロセスで意識化してきた、自分のプログラムの代表的なものはこんな感じです。

自立していなければならない(人に依存してはいけない)
誠実でなければならない(裏表があってはならない)
努力しなければならない(怠けてはいけない)
優秀でなければならない(できないことが有ってはいけない)
謙虚でなければいけない(傲慢になってはいけない)
責任を果たさなければならない(無責任ではいけない)
他者を配慮しなければならない(自己中心的ではいけない)

他にもまだまだありますが、それらを全部満たすことが、私が“理想の私”となって安全安心を獲得できる状態なのです。落ち着いて考えれば、スーパーマンでもない限りそんなの全く不可能!笑っちゃいますよね。

これらは、まさに私がずっととらわれてきた「妄想」。いつもそうしよう、そうありたいと願っているのに、全然できなくて、いつもできないと感じているから、ずっとそこに向かってエネルギーを注ぎ続けてきました。更に言えば、上記のような「○○でなければならない」を強く自分に突きつけるのは、そもそも「私は○○ではない」という前提があるからです。自分が傲慢なことがよ~くわかっているので(無意識的にですが)、それを修正すべし!と「謙虚でなければならない」と自分に言い聞かせているという構図です。

まだ明晰な言語を獲得していない0歳~3歳くらいのときに作られたプログラムは、なかなか意識化されることがありません。意識化するには言語で表現する必要があるからです。

無意識に自分の中に存在している「プログラム」を意識化させるためのコーチング

大人になるにつれて言語力や自己観察力が身についてくると、私たちは様々な局面で自分が大事にしている価値観を認識(=意識化)できるようになります。しかし、内省的な傾向が強い方でも、自分独りの力で意識化できるのはある程度表層的な部分だけのように思います。

コーチングには色々な目的がありますが、深く無意識化されているプログラムを意識化するために、コーチングはとても有効だと思います。自分のプログラムを意識化できたとき、そこから自由になり、できない・やれないと思っていたことを淡々とやれるようになったり、新しい自分へと変化していかれる可能性が拓かれるからです。

クライアントさんが何らかの課題にぶつかってうまくいかないと感じておいでの時、そこにあるのは物理的な障害ばかりではありません。多くの場合、無意識的に心理的な障害を抱えておいでです。「心理的な障害」とは、別の言い方をすれば「妄想」です。

無意識化された「〇〇でなければならない」、「△△をしてはいけない」といった自動反応のプログラムが、私たちの発想をゆがませ、あたかもそこに障害があるかのように妄想を見せます。

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「〇〇でなければならない」のはなぜですか? 
コーチとして、私は質問し、注意深く集中して傾聴します。
クライアントは、これまで話したことがないことを語りながら答えを探ります。

「そうしないと、△△になってしまうからです。」

私は尋ねます。
「△△になってしまうと、どうなってしまうと思っているのですか?」

出発点の「〇〇でなければならない」は千差万別、人それぞれですが、クライアントさんとの誠実で慎重な、そして理知的な探求の協働作業の先に深海の海底まで降り切ったとわかる、普遍的な瞬間があります。

「そうなってしまうと…私の存在価値がなくなってしまうからです。」

私は、更にお伺いします。
「本当にそうですか?」 
「全く例外なく? どんな時も、いつでも絶対にそうですか?」

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こうした特別な探求をしない限り、私たちは「〇〇でなければならない(しなければならない)。さもないと私には価値がない」という妄想を、あたかも真実であるかのように思い込んで、ずっとずっとそのパラダイムの中で生きていることにほとんど気づくことがありません。

この妄想の中で生きるからこそ、私たちは価値ある人間になろうとして必死にもがき、経験を積み、リソースを身に着け、成長していきます。プログラムが妄想を見せてくれるおかげで、私たちはしっかりとした大人になれるわけです。その意味では、妄想が全くの悪なわけではありません。

妄想が過剰になりすぎて、自分自身を苦しめ、視野狭窄を生み出し、ありもない障害があるかのように思い込まされて動きが取れなくなってしまったときには、そろそろ、その妄想の靄を払うべきタイミングだという感じがしています。

「〇〇しなければならない。さもないと、私の存在価値がないから。」

私自身は、そして私が過去にかかわらせていただいた方々も、このレベルの気づきを得たときから、深いところで何かが変わることを体験してきました。

「〇〇しなければならない。さもないと、私の存在価値がない」という妄想の靄が晴れていくのと、その人のPureEdgeの輪郭がはっきりしてくるのとは、確実に連動しているように思います。

私のPureEdgeへの旅は、まだまだ続きます。





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