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理想のオトナ像になれているかな?

空いた時間があると、よくそんな事を自省します。

果たして今の自分は、過去の自分が掲げた「理想のオトナになれているかな?」と。

僕のオトナ像は理想が高いかも知れません。高校の頃から飲み屋さん通いで、カッコいい大人もカッコ悪い大人も、なりたいオトナもなりたくないオトナも、ケーススタディには事欠かなかったと思います。

そんな先輩たちの姿を姿を見ながら、なりたいオトナの姿を取捨選択しながら僕は育ちました。たぶん、同世代の友人たちよりも"オトナ"ってものと接して影響を受けてきました。

カッコ良いオトナは、懐が広い。自分と違う考え方を持つ相手を「そういう見方もあるなー」と受け入れる器のでかさを持ってる。その上で「だがしかし」と自分なりの意見も言ってくれる。

カッコ良いオトナは、年齢で人を判断しない。相手が若くても「学べる」と踏んだら柔軟にその思考を取り入れる。相手がどんなに社会的に偉かろうが年上だろうが「学ぶべきことはない」と踏んだら話を笑顔で聞き流す。

カッコいい大人は、年上だろうが年下だろうが、少しでも認めた相手には対話の時間が良質かつ実り多くなるよう、コミュニケーションの手を抜かない。認めない相手でもコミュニケーションの腰を折るようなことはしない。ただ、今日の酒席は残念だったな、と内心思うだけで面には出さない。

飲み屋さんという限られたコミュニティの中ではありましたけど、数多の大人達と酒席を共にする中で、上記のようなことを僕は学びました。そして、良いと思った要素は積極的に取り入れてきました。

僕は結婚にも結果的に失敗し、我が子を持つことはないでしょうし、障害者になってしまった今、再婚する事もないでしょうし、恋をすることにも後ろ向きです。だから"自分色"の影響を強く受けるであろう対象を持ちません。

そのかわり、縁を持ってくれた他者に全力で向き合おうと思っています。歳の長幼じゃなく、相互にリスペクト出来るひとりの存在として。

ともすると面倒臭いオッサンですが、そう思われますないように全力を尽くします。

年端のいかない若造と縁を持ち、導いてくれた行きつけのオッサン達の善意が無駄ではなく、次の新しい誰かを導ける力と姿を変えて、一端のオッサンとなったあの日の若造の力として生き続けているのだ。その事を行きつけのオッサンたちが知ることはないのだろうけど、それはそれでしゃあないと思うし、それでいいのだと思う。

彼らにしてもらった善意は、僕と関わってくれる人に手渡していけばいい。手渡すと言っても、僕の何かが減るわけじゃない。

願わくばカッコいいオトナでありたいし、カッコいいオトナを目指す誰かのチカラになりたい(*^^*)

あの頃、僕を育ててくれたオッサンやオバサンたちは今の僕を見てどう思うのか聞いてみたいのをぐっと堪える。もう、物理的に不可能になってしまった再会だから。

いいのだ、会えなくても。貰ったものたちは、確実に僕の中で息づいているからね。

それでは、今日はこのへんで。












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